小説『エミリーキャット』第44章・草上の昼食
絹漉(きぬごし)されたような柔らかく理目(キメ)の細かい闇の被膜にしっとりと内包され、彩は一瞬たりとも目覚めることなく、どこまでもシームレスで濃く深い睡りの国の住人となった。
枕が変わっただけでもなかなか寝付けなくなる彩は、自宅から持参してきた軽めの睡眠導入剤を飲むことすら忘れて、その密度の高い眠りを思う存分、朝まで堪能した。
エミリーが蝋燭の焔を吹き消すと、まるで全盲となってしまったかのような完璧な闇に閉ざされ、彩は驚いた。
自分の指先も、寝ているベッドの寝具さえ闇の中とはいえその輪郭すら全く見えず、思わず触ってその在りかを確かめないと不安になるような濃いプリミティブな闇を彩は生まれて初めて知った。
住宅街から離れた、やや辺鄙な場所に建つ館とはいえ、やはりビューティフル・ワールドは森の中に在るからなのであろう、
木々に囲まれその濃密な繁茂を含む闇夜に抱(いだ)かれた彩は最初、
不馴れな為に恐ろしくなった。
まさに一寸先すら見えずに彩は闇の中で自分の顔を思わず検(あらた)めるかの如く触り、ついでに膝を曲げ、爪先にまで触れようとしてその意外な距離感に彼女は闇の中で慄然(りつぜん)とした。
目が瞑れたような闇の中では日常、そんな風にはとても感じられない些細な動作がまるで他人の躰を借りているかのごとく大きな違和感が生まれ、彩は咄嗟にスマートフォンを持っていないことをもどかしく感じた。
"あれがあれば手元灯りになるのに…"
そして思った。
此処ではこんな闇が夜は当たり前なのだと…。
エミリーは幼い頃からそのような夜は冥(くら)い、昼は明るいという自然の規矩に慣れ親しみ、順応し、今や特にそれに対して不自由を覚えること無く、感覚的に研ぎ澄まされて暮らしているのであろう。
さながら夜の獣のように…。
そういったことは一晩中街灯やネオンサインの点る都市部ではあり得ないことだった。
夜、ベッドに横たわっていても、
マンションを取り囲むように立つ街灯や近隣のコンビニなどの灯りは遮光カーテンを引いていても、その僅少な隙間やカーテンレールの合間から室内に、そこはかとない灯りを漏れ伝うように寝室内を照らし出していたからだ。
それが都会の夜の常だった。
その仄かな灯りの余韻ともいうような脆弱な明るみがあるからこそ、
人は夜が来ても恐ろしくはなく、
その簡便で洗練された現代の闇が在るからこそ当たり前のように朝を迎え、昼も夜も安堵して、その行住坐臥が行えているのかもしれない。
彩は自分で自分の躰のあちらこちらを触って確め、今度は急に眼が見えなくなった人のように手を伸ばし、滅多矢鱈と闇をまさぐるあまり、
ベッドの四隅を取り囲む天蓋の支柱にしたたか手の甲をぶつけて痛い思いを噛みしめ、その悲鳴を思わず飲み込んだりもした。
そのうち彼女はベッドサイドのナイト・テーブル上の何かを誤って触れたのであろう、
いかにも繊細なその''何か''が砕け散るような音と共にその"何か"を自分が寄せ木細工の床へ落とし、壊してしまったことを彼女は闇の中で心細く理解した。
彩は濃密過ぎる闇の中で一際澄んだ音で響く、陶器のような何かが砕け散るその音に芯からひやりとして心臓が縮み上がりそうになった。
猫達のうちの何頭かが不満そうな鳴き声を上げ、絨毯の上の犬用ドーム型ベッドにクリスと共に眠るバターカップまでもが驚いて一瞬、ヴァウッと低くはあるが、いかにも彩の不注意を叱責するかのように鳴いた為彩は消え入りそうな声で小さく動物達の安眠を破ったことを謝った。
すると囁きとも笑いともとれる、
どっちつかずなエミリーの声がした。
その声はまるで困惑した彩の行動を愉しんでいるかのようでもあった。
『いいのよ彩、
気にしないで、
みんなびっくりしただけで別に怒ってるんじゃないのよ、
仕方無いわよね、無理も無い、
さぁ彩、こっちへいらっしゃい』
『ごめんなさい、私、こんな本格的な闇夜に慣れてなくて、
きっと私、何か落としたんだわ、
ごめんなさいエミリー』
『いいのよ気にしないで、』
『でもここには高価なアンティークの調度品がたくさん在るから、
きっと私、壊したんじゃないかと心配だわ』
『多分、置き時計じゃないかしら
あんなものは此処ではさして必要無いから別に壊れたって構わないのよ、』
『でも』
と言いつのる彩の唇を、エミリーはまるで見澄ましたかのように闇の中で真っ直ぐぶれずに伸ばした手のひらの指先で触れて閉ざすとこう言った。
『大丈夫よ、気にしなくても、
何も壊れてなんかいないわ、
もし壊れていても構わないわ、
さぁもう眠りましょう、』
声は確かにエミリーでも、濡れた瞳の綺羅めきすら、その人影の片鱗すらまるで見えぬエミリーに抱き寄せられ、
彩はまるで体温を持つ闇の塊(かたまり)に抱きすくめられたかのような錯覚に陥った。
だが抱き寄せられるとエミリーの、うなじからは深いあの麝香(じゃこう)のような匂いが幽かにする。
やや高く感じる体温とふわふわと豊かで柔らかい髪の感触は紛れもなくエミリーのものだ。
『おやすみなさい、彩、
ここでは何ももう不安なことは起こらないのよ、
さぁリラックスして私についてきて』
そう言われてもついてゆくって一体何処へ?と思っているうちに彩はエミリーの腕の中でまるで意識を失ったかのような唐突な眠りへと落ちてそこから先は微塵も覚えていなかった。
覚えているのは深い闇の中で聴こえていた森の木々のざわめきの音だけだ。
道路を車が遠ざかる無機質な音も、バイクや自転車の疾走音も聴こえない。
夜遅く帰宅するサラリーマンが、
アスファルトに響かせる渇いた靴音も、
そしてそのサラリーマンが自販機で何かを買う小銭を投入する音にすら、彩は彼のその一日の、人生の、癒えない重荷という疲弊を敏感に感じ取った。
ゴトンという缶が転がり出る鈍い音にすら…。
たまに酔漢達が煩く、賑やかに歌いながら、あるいは若者であろうか、鋭いような口笛を深夜に得意げに吹きながら遠ざかるということもない、
同じマンションの住人のどこからか聴こえてくるトイレの水を流す音や、
扉を閉める音、廊下を歩く音、
夜でもたまに聴こえる掃除機をかける音や、洗濯機を回す音、
窓を閉めていてもたまに聴こえてしまう大きな独特の、聴けばつい笑ってしまうようなくしゃみや、
食器が割れる音と共に切れ切れに聴こえる夫婦喧嘩などもここでは無縁だ。
ここではひたすらに風の音と木々のざわめき、
ただそれだけなのだ。
これを淋しいと感じる人間と、心地好いと感じる人間とに分かれるとしたら彩は後派だとほんの少しの時間差を経て思った。
この濃すぎる闇さえ慣れて、つき合い方を覚えたら、私は森での暮らしはむしろ快適だ。
それだけきっと世の中の人達に比べたら私は変人なのだろう、
世捨て人じみた森の中での隠遁暮らしに抵抗は無い。
エミリーさえ居てくれたらこの濃すぎるまるで原始のような闇など何故怯えることがあるだろう?
と、彩は思った。
エミリーはまるで闇の精霊のような手指で優しく彩の髪を撫で続けた。
『私はビューティフル・ワールドに向いている人間なんだわ…
私はここの古式床しいがゆえの不自由さも様々な侘しささえもが全てにおいて心地好い…』
そう彩はしみじみ思った。
そう思ったか思わぬか、スレスレの覚醒と睡りの汀で彩はアリスがラビット・ホールへ落ちるようにストンと眠りに堕ちていった。
そこから先の睡りはモネの睡蓮の下で微睡(まどろ)む蜻蛉になる前のヤゴか、
薄羽蜻蛉(ウスバ・カゲロウ)が、
黒い綸子(りんず)を張ったように艶めいた真夜中の水面を、その脆い糸屑のような脚先で触れては翔び、
また触れては翔ぶように、
漆黒の水面に小さな月光いろの波紋を作りながら、それでも気づかずに尚もぐっすりと眠り続けながら翔び続ける…さながらそんな睡りだったのだ。
目覚めた朝は清々しく軽やかでありながら、全身に力が漲(みなぎ)るように彩は感じた。
鎧戸越しに射す朝の光がベッドに作るなよやかな光の象(かたち)を、
上下するシーソーのような奇妙な動きをして、目覚めた彩はその不思議に目を奪われた。
窓の傍ではキジバトの物憂い鳴き声がする。
森の中からはもっと様々な野鳥の鳴き声がまるで反射光のように放射線状にあちらこちらから聴こえてくる。さながら朝のオーケストラだ。
それなのに少しも五月蝿(うるさ)くなどない。
なめらかで心地好い毛布や寝具の中でまだ横たわっていたい彩はうーんと猫のように伸びをしながら、辺りを見回した。
誰も居ない。
エミリーも、猫達もバターカップも、誰一人いない。
彩は起き上がり、その躰の軽さといつも朝起き抜けに感じるけだるさは全く無く、出し抜けに子供に返ったかのような清々しい朝に彼女は多幸感で胸がいっぱいになった。
『ああ、なんて素敵なビューティフル・ワールドでの朝なの!
こんなに気持ちのいい爽やかな朝は一体何年ぶりかしら』
と彩は窓の鎧戸を開け、仏蘭西式花頭窓を外側に押し開けた。
純金の朝の光の帯は雲間から降り注ぐ天使の梯子のように部屋中へと一気に射し込み、やがて室中を影の欠片ひとつ無いまでに朝の輝きでたっぷりと豊かに満たした。
ここでは夜も濃厚で緊密だが、朝もまるで絞りたてのミルクのように、しっかりと濃くリッチだった。
こんなにも目映く黄金(きん)いろに光輝く朝陽など見たことがない、
と彩は思って心が踊った。
窓を開くと、階下の前庭でエミリーが猫達やバターカップと共にいそいそと行ったり来たりして木の下にある白いクロスの掛かった円卓
へと食事をワゴンに乗せてガタガタと運んでいるのが目に入った。
食卓は遅い午前に相応しく、かなりたっぷりと豊かだった。
揚げたての薄切りのカツを挟む、
やはり薄切りのイタリアパンからガーリック・バタの匂いが三階の屋根裏部屋の高窓にまで漂ってくる。
人形の髪のように愛らしく捻られたマジパンや白い生クリームに非常に微細に砕いた無数の飴やナッツ類を混ぜ込んで、スポンジケーキに塗ったり、挟(はさ)んだりした、食べるとジャリジャリとした食感が愉しい純白のキャンディ・ケーキも高々とケーキ・スタンドに据えられ、
円卓の中央に鎮座している。
色とりどりのフルーツが山盛りバカラの硝子皿に盛られ、古式床しい紅茶のセットが設(しつら)えてある。
エッグスタンドにはゆで卵がセッティングされ、
エミリーはワインさえ飲もうとしているのか、
庭でワイングラスを磨いては、光に透かしてその透明度をしきりに検分していた。
『エミリー!おはよう早いのね』
エミリーは彩を見上げると、ワイングラスを持った手を振って答えた。
『おはよう彩、
ゆっくり着替えて来てね、
テーブルの上のご馳走は逃げたりしないから』
自家製の香辛料の入らないオイル・サーディンなどが食卓にあるために猫達がソワソワと円卓の周りや、
クロスの下へ潜り込んだりまた、
出たりと落ち着きが無い、
『あとでね、彩が来てからよ、
みんなにもちゃんと分けてあげるから心配しないで』
そんなエミリーの話し声が窓に立って深呼吸をする彩の耳にまで風に乗って聴こえてきた。
そんな風景を窓枠に頬杖をついて、多幸感に満ち溢れ、見下ろしている彩を見上げると、エミリーは言った。
『彩!
彩に今日着て欲しいと思って用意した昼間用のドレスがあるの、
私のドレッサーの前の椅子の背に、掛けてあるからそれを見て、
きっと似合うと思うしサイズも合ってると思うわ、
それを着たらそろそろ階下へいらっしゃいね、
私はいいんだけど、どうやら猫達がもう待ち切れないようだから、』
『ドレス!?』
彩は部屋の中を振り返って見回した。
白いレースを袖口と首周りにだけ、ほんの少量あしらったシフォンのドレスがエミリーのドレッサーの椅子の背に長々と掛けてあるのを見つけて彩は思わず嬉々として駆け寄った。
彩はそれを手にして愛おしげに頬擦りをした後、
鏡の前でそのドレスを胸に当てて感嘆のため息をついた。
『…素敵…なんて美しいの…
まるで夢みたいよ』
彼女は窓へ駆け寄ると叫んだ。
『エミリー、なんて美しいドレスなの!
私、まるで夢を見てるようだわ、
でもエミリー、
このドレスに合わせる靴が無いの、
私、バッグにここの庭で履こうと思ってコンバースを持ってきたんだけど、それ履いちゃ駄目かしら?』
『靴なんて森の中で要らないわ、
裸足が一番気持ちいいのよ、
それを着たらすぐに素足のまま、
庭へいらっしゃいね、待ってるわ』
そう言うエミリーも上から紺のデニムのエプロンを掛けてはいるものの、エミリーと同じ白いドレス姿だった。
そしてそのドレスの裾をいきなり、捲り上げると
まるでガゼルを思わせる引き締まったその癖、雪のように白く眩しい素足を、太股近くまで彩に向かって見せつけると彼女はいつもよりずっと陽気に笑って言った。
『早く来ないと猫達の群れがテーブルの上を襲っちゃうかも、彩、助けて!』
今朝のエミリーは輝かしいほど無邪気で健やかで、まるで朝の女神のようだと彩は思った。
然し『裸足で森の中を』と聴いて彩は思わず、その躰と心がすくんでしまった。
自分の家の中に居ても全くの裸足だなんてよほどの真夏以外ちょっとあり得ない、
フローリングがすぐに、くすんでしまうからいやだ、
という理由もあったが夏でも爪先の冷える彩はスリッパや薄い靴下を履く生活だった。
『裸足で森の中を歩くだなんて…
痛くない?それに…なんだか怖いわ』
『何が怖いの?
彩がここに来る時、履いてきたピン・ヒールのほうが、よほど険呑(けんのん)よ、
あんな武器みたいな靴はここでは履かせないわ、
裸足が一番よ、
私は毎日、この森の中を裸足で散歩しているのよ、
猫達と一緒にね、
草や地面を動物のように素足で踏んで歩くってとても気持ちよくて快適よ、
森と仲良くなれるわ』
ふたりはナイフもフォークも使わずになんでも手掴みで食べた。
ケーキもサーディンも、指についた脂を音をたてて舐めると、その指で色とりどりのマカロンを好きな色の順にふたりは競うように摘まんで食べた。
エミリーはミントブルー、レモンイエロー、ライラック・ピンクにセサミグレーとダーク・ラズベリー、
彩はコーラルピンクとマリーゴールド・オレンジ、セージ・グリーンに
チョコレートブラウン、バニラ・ホワイト、
エミリーはナイフでフルーツの果皮を剥き、そのナイフの上に果肉を乗せたまま口へ運んで美味しそうに食べた。彩は皮を剥かずに美しいドレスの胸元で果皮を拭うと、そのままかじりついて食べた。
『丸かじりだなんて行儀が悪いわ』
とエミリーがフルーツナイフで丁寧に青林檎を剥くとナイフにその実を乗せて、まるで狩人の食事のように彩の口元へと運んだ。
それを上手に咥(くわ)えた彩の唇にエミリーは飛びつくように吸いつくと同時に彩の唇から仔栗鼠(こりす)の尻尾のように突き出した林檎の半分を食べ尽くした。
ふたりは昼日中からワインとシャンパンに酔って大笑いした。
笑いながら彩は言った。
『ねぇキスって美味しいものなのね?
青い林檎の味がする、
アンズと葡萄とスモモとサクランボ、
柘榴(ざくろ)と摘みたての木苺と木登りして採ったマルベリーの小さな黒い果粒の味までするわ、
それとワインとシャンパンと…
ビターチョコレートと油漬けの鰯と、色とりどりのマカロンとキャンディケーキとたくさんの種類のパンと、ベーコンとガーリック、
卵と野菜とヨーグルト、
紅茶とペリエと巫山戯(ふざけ)て、そこいらで摘んで食べた草や、
タンポポの味まで、ぜぇんぶする!』
彩がそう言うと、エミリーは悪戯っぽく笑って言った。
『彩がむしって食べたそこいらの草には、きっとバターカップのオシッコがかかっているはずよ、
だからほんのり塩味が効いているかも、』
『えーいやだぁ!』
そう言いながらも彩はエミリーが椅子の上でのけぞって笑う時に一瞬、見えた美しい歯並びの清々しい見事な半円を眩しく思って見た。
そう思った瞬間、まるで絵の中に居るように時は止まり、数秒後、エミリーはまるで現実に帰ったかのように椅子ごと後ろへ倒れてしまった。
『エミリー大丈夫??』
我に返ったように驚いて駆けつけようとした彩は、
着慣れないドレスの前裾を踏んで、彼女は立ち上がろうと座りかけたエミリーの上へと倒れ込んだ。
ふたりは悲鳴を上げながらも笑い、抱き合い、
草上をごろごろとまるで悪戯盛りの子供のように転がった。
転がるうち、ゆるやかな傾斜の、
それでも全く思いもよらぬ草と花々とに覆われた斜面を、ふたりは揃って愉しげな悲鳴と共に深い草地の中へと転がり落ちたが、ふたりの洪笑はそれでも止むことは無かった。
『その美味しいキスを私にも頂戴、』
エミリーは彩の下唇をくわえるようにくちづけし、やがて上唇を吸うようにくちづけし、ロゼワインの味のする舌をふたりは絡ませあい、何度も何度も鳥が羽虫や幼虫を食べるように唇を優しくぶつけ合った。
"キスって食べるように、
味わうようにするものだったのね、知らなかったわ、エミリーのキスは私の中に電流が走る、ずっとディープキスが嫌いだったのに、
求められるから仕方無く応じていただけだったのに、
むしろ不潔で気持ち悪いって思っていたのに、
今では雛鳥が美味しい餌を貰うように、私はそれを心から求め、欲している…''と、彩は思った。
『見て、彩』
そう言われて彩は今まで自分達がついていた食卓へと視線を放った。
猫達が椅子の上に座り、ケーキを食べたりワインや紅茶をテーブルから人のように飲んだり食べたりし始めた。
バターカップは猫達が彼の為に次々と卓上から払い落とすあらゆるものをクリスと並んで下で口を開けて待ち受け、次々とキャッチするように食べてゆく。
『嘘みたい、まるで漫画の世界だわ、あんなことして大丈夫なの?
あら、カツサンドなんて食べたりして、
猫達の躰に悪くはないの?』
『彩、ここはビューティフルワールドよ、
世間の常識はここには無いわ、猫達だってバターカップだって普通の世界の生き物ではないのよ、
だからほら、見て』
そう言ってエミリーが指し示した方角では三毛猫のロージィがどうもたらふく食べて満足したのか、
食卓の上の大きな樫の樹上で小さな黄金(きん)いろの編み棒を使って器用に編み物を始めていた。
『あれは、幻よ、
そんなはずないわ、
タンポポを食べたりしたからあんな奇妙なものが見えるんだわ、
私ね昔、食用じゃない野に咲くタンポポを決して食べてはいけないって施設の先生から言われたことがあるの、
なんで?って聴いたら、タンポポの呪いがかかって夢の世界へ連れてゆかれて二度と戻ってこれなくなるから、だから野生のタンポポを食べてはいけないんだって、』
『だとしたらその先生は大莫迦者よ、
一生懸命咲いている野の花を無闇矢鱈と摘んではいけないって教訓を伝えたかったのかもしれないけれど、無邪気で優しいタンポポが呪いをかけたりなんかしないわ、
バターカップだってしょっちゅうタンポポを食べてるけど呪われたりなんかしないわよ、
呪いをかけるのはいつも人間で、
花や動物が呪ったりなんかしないわ、
もし呪われるとしたら余程、惨(むご)い真似をした悪魔のような人達だけでしょうね、
無垢な彼らが人間のように、タンポポよりキュートな彩に呪いをかけるだなんて…』
エミリーは彩の鼻を摘まむと優しい声で言った。
『レモンをかじると中から最上級の革張りのリクライニング式の椅子が出てくるほどあり得ないことだわ』彩は大真面目な顔でそう囁いたエミリーの言葉に思わず草の上で笑い臥したが、エミリーが
『目を閉じて』
と言ったので笑いをこらえながらも、彼女はエミリーの言いつけ通りそっと目を閉じた。
目を閉じて一分以上経っても何も起こらないので、彩はふと、片目を開けて隣のエミリーを盗み見た。
彩はエミリーがてっきりくちづけしてくるものと思って待っていたのだが、エミリーは彩からいつの間にか遠く離れて、トルコ石で出来た碧い扉の前に後ろ姿で立っていた。
彩と同じ白いドレスに身を包んだ長身で痩身のエミリーの後ろ姿は、
その碧い扉を前に絵画的ですらあった。
『…エミリー?』
彩はふと不安感にかられて起き上がって声をかけた。
エミリーは彩を振り返って微笑んだ。
『彩、ブルーベルが咲くあの野原を見てみたくない?とても綺麗なのよ、』
『でも…扉のむこうには…』
と彩は言いかかって何故だかその先の言葉を飲み込んだ。
『貴女が今言おうとしたことは解るわ、でも大丈夫、
この扉はあの扉とは違うわ、
あの少女にまた惑わされないか不安なんでしょう?
でも大丈夫、
彼女は今、抑えつけられてここへは出てこられないわ、
私と貴女が幸せで、愛情という絆でしっかりと結ばれていれば、彼女はビューティフルワールドに
出てくることは出来ないのよ、
だから、さあ、』
とエミリーは彩に向かって手を延ばした。
彩は起き上がりエミリーの手に、手のひらをゆだねるとエミリーはダイヤモンドを模した丹念なプリンセス・カットを施された透明の硝子のドアノブをゆっくりと回した。
そこから先は果てしなく広がる野原と、なだらかな丘隆、
野原が浅い小川を挟み、その上に、ささやかな橋がかかっている。
遠くには形のいい盛り土道の両脇を同じ背丈の木々が並列し、ふたりをどこまでも誘(いざな)うかのようにすら見える。
『まるで絵画の中にいるようだわ』
と彩は思わず感に堪えたように言った。
『絵なのよ、本当は、
これは絵だったのに私が勝手に自分だけの世界にしてしまったの、
このビューティフルワールドの中だけで許される、独りぽっちのパラダイスを…』
『でも今はもう独りぽっちなんかじゃないわ』
と言って見たエミリーの顔がひどく悲しげで、彩はどうしていいのか解らなくなり、酔いに任せて彼女は、なんとかエミリーを笑わそうと、
彼女の瞳が判然と見えそうで見えない、曖昧な鏡のように不思議な眼鏡を素早く奪い取った。
エミリーは思わず息を飲むような声を上げ、
次の瞬間その貌を両手で覆った。
彼女は声も出せずにその場にまるで崩れ落ちるように、座り込んだ。
『エミリー??ごめんなさい、
大丈夫?』
彩はそう言いながらもエミリーのまだ一度も見たことのない瞳を見てみたいという欲求のほうが彼女の中でどうしても勝(まさ)ってしまうのを感じた。
彩はエミリーがその貌を覆う細い両手首を優しく持ち、花開かせるようにそっとその手と手を、その愛しい貌からゆっくりと引き離した。
うつ向いたエミリーは長い睫毛を臥せて涙を流していた。
その涙は地面へ転がり落ちると、
そこから次々と名の知れぬ花が伸びては咲いた。
『どうしてこんなことをするの?彩』
そう言ってエミリーは長い睫毛を上げ、まるで掬(すく)い上げるように彩を恨めしげに見つめ上げた。
その瞳は右目が白っぽいアイス・ブルーで左目はへイゼル・ブラウンだった。
『エミリー、その眼…
どうしたの?』
と、思わず彩は言ったが、それと同時に彼女の脳裡にあの夢の中の金髪の少女の互い違いの瞳の色が色鮮やかに甦った。
ピンクのテディベアを抱き、彼女はこう言った。
その声まで仔細にリアルに、今も思い浮かぶ。
『私があの人を殺してパパ達がここへ埋めたの、
だからあの人は薔薇の花園で眠っているわ。』
旧くて強いフラッシュを焚くように彩の世界は一瞬真っ白となった。
しかしその都度、過去の映像は否応無しに彩の眼前でもう一度、繰り拡げられる。
『貴女は私を愛してくれる?』
フラッシュを焚くバンという音と共にあの時の少女の姿と声とが、色鮮やかに目の前に甦るのを、
彩はどうしても止めることが出来なかった。
少女は白い追憶の焔がまるで陽炎(かげろう)のようにゆらゆらと立ち登る中、オッドアイの瞳から蒼白の貌に血の涙を流し、口紅を塗ったかのような紅い唇をゆがめて笑うと、こう言った。
『私の彩、大好きよ』
その稚(いと)けない童女の声は、
いつの間にか大人の女の声に変わっていた。そしてその声は終わりに近づくにつれ、黒い汚水が溢れ、滴り落ちるようなトーンに変わり、その声はもはや少女でも女でも男でもない、性別など無い闇夜の奥から絞り出された、どうしようもなく恐ろしい声と化していた。
少女はその本物の闇を支配する者の声で、こう言ったのだ。
『私は貴女をずっと待っていたのよ、何年も何年も気が遠くなるほどに…』
…あれは誰?
彩は息も絶え絶えになって独りごちるように尋ねた。
『一体誰なの?
彼女はエミリーと…同じ眼をしていたわ』
『同じじゃないわ』
『でも…』
『全然違うわ、似ているのは眼だけよ、』
『ねえエミリー、本当のことを教えて、貴女は何か私に隠しているわ、これはとても大切なことよ、
お願いエミリー、
秘密になんてしないで欲しいの、
私は何を聴いても覚悟は出来ているのよ、
例え貴女が両親を殺してこの森のどこかへ埋めて隠していたとしても私の気持ちは微塵も変わらないわ、
私はむしろそんな貴女を守って上げたい、
私の生涯をかけてでも世間から貴女を匿(かくま)って上げたいの、
たとえ貴女がどんなに罪深く、
世間では有罪であったとしても私は貴女を守るわ、
命懸けで守り抜くわ、
私が貴女の砦(とりで)となるわ、
どんな人々が貴女を棄てても、
私は見棄てない、エミリー、
貴女がたとえ森に棲む妖かしの精であろうが、
悪霊であろうが関係ないわ、
私は貴女を癒したいし守りたいの、
何故ならばエミリー、
貴女を心から愛しているからよ、
貴女のお父様がそうだったように、
私もまた孤絶の極みで苦しんでいる貴女を無関心や自分と自分の家族さえよければあとは野となれ山となれなんて無関心の仮面で通り過ぎて行ったり、
棄て置いて逃げたり出来ないの、
それはどうしてだと思う?
貴女をどうしようもなく愛してしまつたからなのよ、
そんな眼を見てしまったからといって、今更本当の貴女の正体を知ったからといって、私が怯(ひる)むとでも思うの?
私は男じゃないのよ!エミリー、
貴女を使い棄てのゴミか、
壊れて飽きた人形のように独りきりにしてしまって、逃げ切ってしまえるほど合理的じゃないし、
きっと逃げないなんて莫迦なんだと思いもするわ、でもそれでいいのよ、
それでいいの、エミリー、私は愚かなの、
貴女をただ愛している、それだけのとても愚かな女なの』
『…彩…』
エミリーの薄碧い右目から泪がひとすじ零れ落ちた。
『お願いよ、エミリー、
何を聴いても貴女から去っていったり私はしないわ、だからお願い、
教えて欲しいの、
本当のことを…』
『…あの少女は…』
とエミリーは苦痛に耐えるように眼を伏せると、
まるで囁くように言った。
『…私の妹なの…』
『えっ?…
でも今まで一言も妹さんの存在なんて、その片鱗すら出てこなかったわ』
『いいえ、言ったはずよ、
ニューヨークで母はずっと私に言いきかせていたって、
父との間に待望の子供が出来たら、お前なんかお払い箱だといつも言われて私は本気で怯えていたって、』
『…そう言えば…』
『そして生まれたのよ、
私の生まれたその5年後にね、
待望の父との間に妹は…。
そして私は家族と共に棲んでいながらにしていつもお払い箱の状態となった…』
『…妹さん…でも…でも解らないわ、
だってニューヨークの話でも…
妹さんの話なんて微塵も出てこなかったのに、』
『話したくないから話さなかっただけよ!
妹のことは彩にはわざと切り取って話していたの、
だって私にはとても辛くて悲しいことだったから…
でも彼女はずっと一緒だったわ、
ニューヨークでも、日本に来てからも…
彼女はずっとずっと一緒だったわ、
今でも私から離れようとしないのよ、
ずっと妹は私といるの、
彩、私はずっと不安だったの、
ずっと怯えていたの、
妹は私の愛する人を次々奪ってしまっていたから…両親も友達も恋人ですら…
可愛くて悧巧で活発で…
私と違ってとても優秀で何でも出来る…
そんな妹に魅了されない人は居ないもの…。
だから彼女のことは彩には知られたくなかったの、
だって怖くってたまらなかったから…
大切な彩まで彼女に盗られてしまったら私はどうしたらいいの?』
彩の胸にエミリーは泣きながら崩れ落ちた。
彩はエミリーを抱き寄せて、その激しく戦慄(わなな)くように隆起する背中を撫でさすりながら、思わず小声で無自覚に独りごちた。
『…エミリーに…妹が居ただなんて…』
To be continued…
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