黒い雲と太陽

小説『エミリーキャット』第5章・赫い泪

『あれは誰だ?あの女は誰なんだ、なんで妹は知っていて俺だけが何も知らない?』
慎哉は春寒(しゅんかん)つのる中、幼い頃には何故か感じなかった深い孤独と失望が、今急に目覚め甦るような気がした。
そしてそれらが全身の血管の中を逆流するような想いに耐えながらその場を立ち去った。
父に好きな人が出来ても無理はない。
同居している妹がそれを理解し受け入れたのだとしたらそれはそれでいいじゃないか。
そう頭では自分に言い聞かせながらも『だけど不倫じゃないか』という想いも彼の胸の内側を熱く焦がした。
『遥香も遥香だ、女同士ってあんなのか?そういや遥香はよくお母さんと離婚して晩年は誰か優しい人見つけてお父さんにも幸せになってほしいって言っていたな…』
頭を占める考えでは『長い間苦労してきた父だって男だ、これくらい自然なことなんだ。だとしたら理解を示すのが息子じゃないのか』
しかし反面17歳の彼の中で燻(くすぶ)り続ける熱い煙は揺らぐように表出し、やがて徐々に強靭さを増して、やがて黒い竜巻のようにいつの間にか心弱りする彼の前に立ちはだかった。
その竜巻を前に彼は咄嗟に思った『母さんが可哀相だ!』
それは初めて感じた母への想いだった。母への思慕や愛着など麻痺したと思っていた。


しかしそれは傷つきやすい幼い心を守る為に自らの手でひっそりと葬るかのように、無意識という心の奥深くに秘匿(ひとく)していただけであり、その心の抽斗(ひきだし)が今やまた奇しくも無意識に壊され、そこから慎哉に向かって母への想いが溢れ流れて、慎哉は溺れそうな気持ちになった。
すっかり日の暮れた住宅街を彷徨(さまよ)ううち、彼は表札の部分がまるで掘ったような形で抜け落ちた門柱(もんちゅう)だけが虚ろに立っている無人の家らしき前にいつの間にか立っていた。
かつての住人の趣味なのかシンプルなストライプ柄のカーテンがそのままどの窓にも閉ざされていた。
カーテンの色はすっかり褪せ、下のほうは擦りきれていた。
門の内側に三輪車が停めてあったが、その三輪車にはすっかり枯れた蔦が絡み、その家に果たして持ち主が居るのかどうかさえ疑わしいほど寂々(じゃくじゃく)とした様子を見るうちに慎哉の目から涙があふれ出た。
ふと気づくと黒い門のごく内側に卑猥な雑誌類が何故だか数冊積んであった。
捨て場に困ってここに誰かが置いていったのか、無人の家に入って肝試しと同時に若者達が中で回し読んだ挙げ句棄て去ったのか?
彼はそれを見て無性に腹が立った。
まるでその本を棄てていったのが父のような気持ちにすらなった。
誠実なフリしてなんだ!不倫じゃないか。
穢(きたな)いよ、母さんはどうなるんだ?母さんは病気なんだぞ!
病気のお母さんを可哀想だと思ってやれと子供の俺達に言っていたのはどこの誰なんだ?背(そびら)をかえしてその場を立ち去ろうとした彼の視線の片鱗(あわい)に何かが光った。
それはその家の垣根に沿う路上に落ちていた百円ライターだった。
『よく覚えていないんだ…ああいうのを隙間っていうんだな、その人間の心の虚ろな隙間にそっと忍び込んでくる何かが居るんだ。その何かがなんなのか解らないんだけど…。
きっと悪魔が居るんだとしたらああいう時、人間の心の隙間に忍び込んでくるものなのかもしれない』


まだ桜の蕾も固い棘(とげ)のように見える、浅春(せんしゅん)の夜気の湿りを含んでいたのか、なかなか雑誌に火は思うようには点かなかった。
親指が擦りきれて痛くなるほど何度もその所業を繰り返し、そんな努力に彼は疲弊を覚え、だんだん何もかもがどうでもよくなっていった。
父も妹もあの見知らぬ女も、そして一度も抱いてなどくれなかった母への憎悪が、愛惜の念と共に慎哉の中で唸るように一斉に黒く高く嗤うように燃え上がった。


彼はしばらく街灯の並列する暗い河沿いの歩道を歩いていたが、やがて怒り狂ったように急に握りしめていた百円ライターを、投石するように黒く光る河面(かわも)に向かって思いきりよく投げた。
しばし自失呆然と、黒い河面がまるで細く水銀を流したように銀色の帯を燻(くゆ)らせ、綺羅(きら)めき、煙のように揺らぎ、流れるのを凝視していた慎哉だったが、その水面に浮かんでは消える光の帯を見つめるうちにふいに不安が募り、厭な予感で、もと居た場所へ馳せ帰ると、なかなか火がつかなかったはずの雑誌は既に燃え上がり、家の垣根の柊(ひいらぎ)の枝にまで火は熱い黒煙を上げながら、夜の闇の中赤く赤く燃え移っていた。






(To be continued…)

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