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小説『エミリーキャット』第30章・Cherish

いつ眠ってしまったのか彩は記憶に無かった。
眠くなってきたという記憶もなかった。
そのせいか目覚めて一瞬彼女は酷く驚いた。
そこがクローゼットの中であることに気がつくまでに彩は二分もかかり、茫然自失としたのにはもっと刺激的な理由(わけ)があった。
いつの間にか彩は全裸で、恐らくエミリーからであろう、彩は毛布一枚だけを掛けられていた。
灯りのついていないランタンがそのままクローゼットの床面に置いてあり、彩は昨夜のことを夢ではなかったのだと朧気(おぼろげ)な記憶の糸を辿ろうとランタンに手を伸ばした。
ニャアと傍で小さく愛らしい鳴き声がして、彩はランタンに差し伸べた手を驚いて引っ込めた。
クリスが毛布に包まれた彩の身体に添うように横たわっていたのだ。
『クリス?
その可愛い声はクリスくんね?
ロイとそっくりさんだけど貴方はボーイソプラノだから、』
と彩はいつかのエミリーの言葉を真似てクリスの頭を撫でた。
クリスは目を細め、喉をぐるぐると鳴らしながら撫でる彩の手にやはりロイ同様頭突きのように軽く頭を跳ね上げるようにしてすり寄せてきた。
辺りを見渡してもエミリーは居ない。


クローゼットの扉は僅かに開き、
向かいの窓から射し込む月の光が、その隙間から毛布に包まれた彩の腰下にまで長く延びていた。
『エミリーはどこに居るの?』
彩はクリスに尋ねながらも今更急に恥ずかしくてたまらなくなった。
‘’月は全部見ていた、
全部知っているのだ…"
と彩は感じた。


クリスがまるでそれに応えるかのようにミャアと一声鳴いてクローゼットの扉の隙間からスルリと出ていってしまうと、彩は急いで自分の服を探した。
彼女は毛布を裸身に巻きつけたまま、床面を這いずり回って服や下着を捜索したがどこにも無く、彩はクローゼットの奥で真っ赤になって呟いた。
『嘘でしょう?なんで無いのよ』
クローゼットの半開きの扉を開けて、彼女は毛布を巻きつけたままの姿で更にはやや大ぶりの毛布である為に余った毛布を長いマントの裾のように引きずりながら何故か、しずしずと歩いた。
するといきなりポロンポロンとピアノの鍵盤を叩くどこか子供っぽく技巧の微塵も無い音が聴こえてきて、彩は振り返った。
でもピアノの前には誰も座ってはいない。

そっと近づくと鍵盤の上を毛足の短い明るい茶トラの猫が愉しそうに歩いていた。
『あらっ可愛い!貴方だぁれ?
初めて見る子ね』
『その子はショーンよ、
とっても美しい茶トラでしょう?
まるで天使のようないい子なの、
彼にはよく笑わせられるわ』


彩はエミリーの背後からの声に飛び上がりそうになって思わず毛布を胸元でしっかりと掻き合わせた。
驚きの余り、危うく毛布をストンと綺麗に床に落下させてしまうところであった。
『そ、そうなの?ロイとクリス以外にも猫ちゃんがいたのね?』
彩はなんだか恥ずかしくてエミリーのほうを振り向くことすら出来ない。
『我が家は猫だらけなのよ、
ショーンも見た目は短毛だから解らないかもしれないけれど、彼もれっきとしたロイの息子よ』

『そうなんだ、
でもタイプが随分違うのね、
ショーンくんも綺麗で凄く可愛らしいけど、ロイはフサフサで…
なんというか…ゴージャスだし、』
『ええでもそうなの、
ロイの奥さんが三毛猫の日本猫だから、生まれた猫達は大きさも毛色も毛足の長さも姿形は本当にみんな様々なの』
エミリーはまるで何事も無かったかのようにごく自然と扉口に寄りかかるようにして話し掛けてくる。
そっと彩は振り返ってその姿を見ると、エミリーはパジャマの上からあのチェックのグレーのストールを羽織ったまま、ソーサーを片手に持ち、カップを口元へと運んでいた。
『まだ…夜なのね…』と彩は言った。

『私、てっきりもう朝なのかと…』
『いいえ、まだ夜よ、
秋の夜は長いわ…』
『朝になったら私…』と彩が言いかかるとエミリーはカップとソーサーを扉の真横のチェストへけたたましく音を立てて置くなり、彩へと駆け寄ってきた。
彩の躰を後ろから抱きすくめると、そのうなじに頬を寄せてエミリーは言った。
『朝になったら帰ってしまうの?
そしてもう二度とここへは帰ってこなくなるんでしょう?』
『そんな…』彩はエミリーの腕の中で躰を一周させてエミリーと向き合った。
『そんなことしない、そんなこと出来ないわ、だって…』
『だって?』
『解ってる癖に、意地悪ね、
私はもうエミリーのものよ』
『本当に?』
『ええ、そうよ、エミリーだってもう私だけのエミリーよ』
『嬉しいわ、彩…!』
エミリーは彩を固く抱き締めた。
その時エミリーの髪や躰から心地好いラベンダーに似た香りの石鹸やシャンプーの香りが柔らかく立ちのぼった。
昨夜のあの匂いとは全く違う。
何故昨夜のエミリーはあんな匂いがしていたのだろう?
ふと夢のあの老婆の顔がぼんやりとではあるが彩の脳裡にフラッシュバックした。
"とてもリアルな夢だった。
何故あんな夢を見たのだろう…
あれが夢なら今でも夢の中ということになるわ、''と彩は思った。
"夢から覚めたのなら、まだこうして『今』があるのは何故?地続きの夢?
それとも夢ではなくあれは幻?
…そうよ、きっとそう、
白鳥も血を流したりなんかしていなかった、
あれは神経がギリギリになるまで、疲弊していた私が見た幻に過ぎなかったのよ、
もうあまり深く考えるのはよそう、余計草臥(くたび)れてしまう、
せっかくエミリーとこうして逢えたんだもの、
他のことなんかどうでもいいいことじゃないの''

彩はエミリーのラベンダーの香りのする抱擁の中で目を閉じたまま訊ねた。
『…エミリー?あのね、
私の服と、後そのう…
…下着は一体どこにあるのかしら?
さっきから探してるんだけど』
『今、お洗濯中よ、
コインランドリーならぬエミリーランドリーで、』
『えっ?洗濯??』
と彩は思わず身を離してエミリーを見た。
『だって彩ったらずぶ濡れってわけじゃなかったけど、濡れたスカートを履いていたのよ、
セーターやジャケットの袖口も濡れて汚れていたし、枯れ葉もいっぱいついていたわ、
まるで水溜まりのある森の中を転げ回って遊んだみたい、』
更にエミリーは悪戯っぽく笑うと、こう言った。
『夕べの貴女はとても綺麗で…
月の光に照らされて、まるで海の泡から生まれたてのビーナスのようだった、
だけどそのビーナスはまるで池に落っこちたワンちゃんみたいな匂いがしていたの、』
ビーナスと言われて思わず頬を染め、恥じらって睫毛を伏せた彩は次の瞬間、その睫毛を今度はキッパリと上げてエミリーの顔を見つめ返すなり今度は真っ青になった。

『いやだ!本当??
でも仕方がなかったのよ、
だって私、本当に池に…』
と言いかかって彩は言いよどみ、『…落ちたんですもの…』
と少しだけ嘘をついた。
白鳥を助けようとして自ら池に入水しただなんて恥ずかしくてとても言えなかった。
気狂いじみてると思われたくなかったのだ。
『まぁいいわ』とエミリーは含み笑いをしてまるで本当のことを知っているかのようだ。
『でもいつまでもその格好じゃいられないでしょう?
その美しい肩とデコルテが魅力的だけど…このままじゃ風邪を引いちゃうわ』
エミリーはそう言うと陶器のように冷たい彩の肩先に口づけをしてその唇をそのまま鎖骨へ滑らせた。
彩は恥ずかしさを忘れて思わず声を上げそうになった。


肩先や鎖骨に唇を当てられ何故か全身に小さく震える焔が冷えきった躰の奥にまで不思議で甘美な稲妻のように素早く走るような感覚を彩は覚えた。
その小さくとも彩の身体を一瞬電撃のように心地好く貫いた''何か"は彩に新鮮な驚きを与えていた。


彩は性的な部分を触れられても、
増してやセックスをしても、過去、何も感じたことなどなかった。
それがどういうことなのか、
よく解らなかった。
だがそういうフリはした。
それが多分恋人同士の礼儀なのだろうと思っていたものの、内心、自分は芝居をしているのだと
自己嫌悪感に苛まれることもあった。
『感じる』とか『いく』とか世間でよく云われていることは、一体どういうことなんだろう?真横でことが終わった後、時にイビキをかいて眠る''彼"を見て彩は思った。
彩は自分には無縁なことなのだと思ってきたし、きっと生まれつき無神経な女なんだろうとも思ってきた。今付き合っている慎哉ともだが、上郷ともそれ以外のうら若い頃に、
付き合った彼氏ともエクスタシーと世の中で呼ばれるような感覚はまるで覚えたことがなかったからだ。
それなのになんら具体的な性交があるわけではないのにエミリーの唇が肩先を吸い、そのまま鎖骨へと滑る感触だけで彩は背筋がゾクッと震え猫のように微細なうなじの髪の毛が一本一本音を立ててそそり立ってゆくような感覚に囚われ、同時にしどけなく全てがほどけてしまいそうになり、思わず毛布を掻き抱いた手指に力が入った。


自分が知らぬ間に蝋燭のように熱く溶けかかってきていることが解り、彩は思わず膝と膝を毛布の下で固く結びつけるように擦り合わせた。
そんな自分の変化が彩は恥ずかしくてたまらず、エミリーからそっと顔を背けた。
しかしエミリーの唇が首筋へと向かうと彩は顔を背けていることすら出来なくなってまるでその波に溺れない為にすがりつくようにしてエミリーを抱き締めた。
抵抗出来ない、と彩は思った。
抵抗出来ないんじゃなくて…
抵抗なんかしたくないの、と彩は思った。


彩はエミリーの少女時代のネグリジェを着てちょうどサイズが合っていた。
163センチそこそこの彩は決して小柄なわけではなかったが175センチはありそうなエミリーのパジャマやネグリジェはそのままでは着られなかったからだ。
ふたりは暖炉の前で簡単な食事をした。
『一体今何時なのか解らないのに、食事だなんて』と言いながらも彩は嬉しそうだった。
エミリーが作った簡素なキュウリの酢漬けのサンドイッチと紅茶にはやや濃いめのブランデーが入っていた。
『ハイ・ティーって言うんでしょう?夜に飲む紅茶はお酒を入れて飲むってイギリスの風習を書いた本で昔、読んだことがあったわ』
『そうね、でもこれはハイ・ティーじゃないわ、
ハイ・ティーはもうかなり昔の習慣で昔のイギリス人は夕食が遅くて八時半とか9時とかだったの、
だからそれまでにお腹が空くでしょう?そんな時、簡単にビスケット1、2枚とお酒を入れた紅茶で小腹を満たして遅い夕食までをしのいだようなんだけど、今のイギリス人はそんなことをして二重に食べたり飲んだりしていたら不経済だし肥満のもとにもなるからって、もう今はしていないの、
だって馬鹿げているわよね?
そんな遅い時刻にたっぷり夕食を食べるのにハイティーの時もそこそこ飲んだり食べたりしていたらしいから…。』

『でも私、なんだか…幸せ…
暖炉って見るのもあたるのも、
生まれて初めてなの、
こうして子供の頃、絵本や童話の世界で憧れた暖かい暖炉の前の敷物の上で、ふたりで並んで座ってハイ・ティーだなんて…まるで夢のようよ』
『ハイ・ティーじゃないんだってば』とエミリーは笑った。
『ハイ・ティーじゃなくてもいいの、そんなこと…どうでもいいことだわ、私にとって重要なのは目の前に大好きな貴女がいてくれること、
ただそれだけよ』
『ああ、彩、』
エミリーは自分の少女時代着ていた白いコットンの素朴なネグリジェを着た彩を抱き寄せた。
『私の大切な彩、お願いだからもうどこへも行かないで』
『エミリー、…そうしたいけど…私、うちへは帰らなくちゃならないわ、このままずっとここに居るってことは出来ないの』
『どうして?』
『どうしてって、だって私には…』
エミリーは急に立ち上がり、無言で扉へと向かった。
『エミリー?』
彩は困惑と不安で立ち上がり、ソファーに掛けてある空色のサテンのケープを羽織り、急いでエミリーのあとを追った。
エミリーを追って廊下へ出た途端、彩は混乱してその場に立ちすくんだ。
今しがた一足違いに駆け出して行ったはずのエミリーの姿は、既に扉の外には無く、その影法師ひとつ見当たらないことが逆に彩を慄然(りつぜん)とさせた。
まるで手品か何かのように一瞬にして彼女は霧のように消えてしまったかのようだ。
彩は長過ぎる廊下の真ん中で途方に暮れた。


エミリーの名を呼びながら彩は長い長い廊下を歩き、あの両開きの扉が一枚だけ僅かに開いているのを見届けて彩はその扉を目指して駆けていった。
花屋の机や椅子や花を投入した無数のバケツが置いてあるリノリウムの床を通り抜けると、スロープ付きの僅かな階段を降りた。
そこからは底冷えを感じる大理石の床が広々と在り、彩はケープの胸元を思わず掻き寄せた。
見ると庭へ向かうあのガラスのドアーが開いている。
彩は庭へと一目散に駆け出していった。
まるでエミリーがそのまま消えてしまい、もう二度と逢えなくなってしまうのではないかというどうしようもなく不安な気持ちとエミリーの身を案ずる心とがせめぎ合い、その軋む胸を抑え、彼女は夜目にもそうと解る美しく手入れされたまるで迷路のような広い庭を歩き回った。
『エミリー?どこにいるの?
返事をして、エミリー、
お願いよあまり心配させないで、
怖いわ!』
言い終わるか終わらぬかの時に彩は遠くで薔薇の茂みの傍に立ち尽くすエミリーの後ろ姿を見つけた。


彩は駆け寄ると持っていたエミリーのガウンを彼女に着せ掛けた。
エミリーは月光を浴びて夜露に濡れた薔薇を前にただ声もなく肩を震わせて泣いている。


『エミリーお願い、泣かないで、私、必ずまた来る!
もう逢えないわけじゃないわ、
そんなことしないわ私、
だってエミリーにもう逢えないなんて私だってとても悲しいことよ、
そんな辛いこと、今の私にはもう、とても考えられないわ』
『…本当?』
と、信じられないほど弱々しい声のエミリーは薔薇の前でまるで夜露のように消えてしまいそうだ。
『本当よ、だから私を信じて欲しいの、
一度戻ってもまた必ずここへすぐに帰ってくるわ、だからその為に私、エミリーにお願いがあるの』
『…お願い?』とやっとエミリーは薔薇の花から振り返った。
『ここの地理を詳しく教えて欲しいの、
ここが一体どこの街で…どこの駅で降りて何番のバスに乗ったらここへ来れるのか?とか…
でないと私、とてもじゃないけど、またここへちゃんと帰ってこれる自信が無いわ、
だってロイがいつも迎えに来てくれるわけじゃないでしょう?
それに私、今日ここへ来るのも、
そりゃあとてもとても大変だったのよ、
あれはある意味…
いえ!ある意味どころかまるで獣道だったわ、


次回からはバスに乗って普通に来たいの、もっと明るい時間帯の…お昼間にね、』
するとエミリーはまるで目の前でピシャリと扉を閉めるような口調で言った。
『昼間は駄目よ、
昼間はここは閉鎖されてて開いてないの、だから誰も入れないわ』
『えっ…どうして?だって昼間はここ、一階の…だって…エミリーは花屋さんなんでしょう?』
彩は困惑して言った。
『ええ…でも昼間はやってないの、うちは夜しか開いてない花屋だから』
『そんな…だってそれだとお客さん来ないでしょう?
おまけにここは森奥だから人目につきにくいし、ねぇエミリー、こんな森の中で一体どうやって花屋さんを経営してるの?
他に店員さんは勿論いるんでしょう?』
『貴女までそんなことに興味があるの??』
とエミリーの瞳が急に濡れ光り、鎮かな凶暴をたたえて瞳の中に小さな嵐の予感が渦巻くのを彩は不安感を持って見守った。


『ごめんなさい、そうね、不要な好奇心だったかもしれないわ、
だけど…私、それ以上にエミリーのことがとても心配なの…』
彩の言葉を遮るようにエミリーはいつになく激しい口調で言い放った。
『みんなそうよ、
あの人は一体あんな森の中の洋館じみた家でどんな暮らしをしているのだろう?

あんな大きな家に何故独りで棲んでいるんだろう?
だいたい彼女はどこの国の人なのか?
家族や血縁は居るのか、居ないのか?
どんな生計でどんな暮らしで、
一体お金はどうしているんだろう?
歳はいくつくらいなんだろう?
ちゃんと働いているのかいないのか、花屋なんて本当にやっているのだろうか?
どうせお嬢様育ちのなれの果てか、もしかしたら妾宅か何かで贅を尽くした自堕落な生活を送っているのかもしれない、

日がな一日ピアノなんか弾いていいご身分なようだけど、あそこが妾宅でないとしたら一体なんなんだ?
独身ではあるようだが…特にお勤めに出掛けている様子も見ない。
だいたいあの人は一体いつになったらお嫁に行く気なのか?
もうそれほど若くもあるまいに、


それともどこかおかしいんだろうか?
身体の病気?
それとも頭?
それとも心?
ここを一歩でも出たら人々のそういう脂切った好奇の目にいつも晒(さら)されるし言われもするわ、


私はハーフだけど単にそれだけじゃないの、
ハーフ以上よ、
いつだってどこだって無所属で部外者の余所者(よそもの)だもの、
みんなとはどうしようもなく毛色が違うのよ、白い馬の中に一頭だけ黒い馬が紛れ込んでいるようなものだわ、
馬ならまだ毛色が違っていても同じ馬だもの、分かち合える部分もあるかもね、でも私は馬ですら無いの、
まるで…獏(ばく)か何か…
馬の世界の中で獏は途轍もなく異形(いぎょう)でしかないわ、
馬とは文化も違うし何もかもが分かち合おうにも…』

エミリーはそのあと言葉に詰まり、嗚咽を漏らした。
『エミリー…』
『子供の時からみんなが私を嗤ったわ、変な子供だって…。
まるで私が傷つかないとでも思ったみたいにね、
この日本という国に住んでいて私は異邦人よりもっと異邦人だわ、
多分イギリスへ住もうが世界中どこへ逃げようが、この違和感はきっと消えないと思うの、


この違和感や生きづらさについて千の言葉を尽くしても、万の言葉を尽くして語ったとしても、きっと彩にだって解ってもらえないわ…
私、幼い頃こう思ったことがあったの、
私の父はもしかしたら宇宙人だったんじゃないかって…
だから私はこんなにおかしいんじゃないかって、
子供ってそんなこと考えて本気で現実逃避するのね、
だってそうしなければ自分の心を、とても守れなかったから』


『…でもエミリー、何故、自分は半分宇宙人だと思ったことがあるの?だってエミリーのお父様はイギリスの』
『父とは血の繋がりは無いわ、
本当の父は誰か解らないの、
確かに継父はイギリス人だけど…
そして私の本当の父親もイギリスの人だけど…顔も見たこともないし、どんな人かもまるで解らないの、
母がとうとう知る必要なんか無いって教えてくれなかったから…』
彩は息を飲み、凍りついたように何も言えなくなった。
そして一瞬感じた不安感がたちまち音を立てて分厚い棚氷が溶けるように、暖かいまるで春の凍て溶けとなって彩の中へと優しく流れ込み、
そして彼女の中を澄んだ清水のように満たした。


それと同時に彩はエミリーを黙って心をこめて抱きしめた。
彩はいつの間にかエミリーを抱きしめたままこう囁いていた。
『私達は出逢うべくして出逢ったのよ、エミリー、
まるで壊れたロケットペンダントの蝶番(ちょうつがい)が直って、行方不明だった片割れのロケットも見つかって…それがぴったりとひとつに合わさったかのように、


私達は巡りあうべくして巡りあったのよ、
貴女の痛みは私にしか解らない、
貴女の不安は自分が何者なのか解らない怖さなのね、解るわエミリー、貴女がそうやって荒れたようになってしまうのは淋しいからよ、
怖くて不安でたまらないからだわ、
理解して欲しいし、愛に餓え過ぎた心はどうしても屈折した形になってしか表出されないわ、
他の人にはそれが解らない、
だから貴女は誤解されてしまう…
更に群れ集う噂好きな人達は好奇という下世話な色眼鏡でしか見ないから、貴女は更にそんな目の前から逃げ出したくなる、
怯えている人はその反対の態度を反射的にとってしまうことがあるわ、でもそれは、ありとあらゆる普通のことやそれが出来たり理解したりが空気を吸うように出来る恵まれた人達には解らないのよ、
解らないだけじゃなく解ろうとしない、
解りたくもないのよ、
そこにはあらゆる類いの感情が立ちはだかって邪魔をしてしまうから…それは時に歪んで誤った理解から生じた嫉妬だったり敵意やプライドや果てには無関心だったりもするわ
でもそれらはいずれも悪意よ、
孤独な人の追い詰められた気持ちなんて自分達には関係の無いことだと思ってる…。
自分達の人生には訪れない他人事だと思ってる…。
…そんなことは無いのにね…
でもエミリー、私なら大丈夫、
エミリー私が貴女を守ってあげる、守ってあげたい、
何故ならば貴女は私、私は貴女だから…』
エミリーは彩を黙って見つめ返した。
その瞳にもうあの挑むような光は無い。
『お願いよ、どうか私を信じて、
大切にしたいと思っているわエミリーを、
この世界を、この宇宙を、
だってそれはエミリーそのものだから…


貴女を慈しみ、愛し、なんとかして助けたいの、
力になりたいのよ!
だから本当に何か問題があって、
独りぽっちで悩んでいるのなら、
どうか私にだけは打ち明けて』
『……』エミリーは黙って夜露が薔薇の花弁の上で砕氷のように煌めくのを見つめ続けている。
その微かに色の掛かった眼鏡のレンズにその綺羅めきが反射しているのを見て彩はエミリーが何を考えているのか量りかねて再び不安感が押し寄せてくるのを跳ね返すように言った。
『…エミリー私を信じてね、私は貴女の味方よ、』


エミリーは無言で振り返ると、その子供のような泣き顔を隠す為にわざと彩を荒々しく抱き寄せた。
震えるエミリーを彩は固く抱きしめて言った。
そして彩は思った。
今までの人生でこれほど言葉というものを勇気を振り絞ることもなく、あらゆる気兼ねや損得感情による計算や脚色をしてしまうこともなく、嘘偽りなくなんの躊躇も見栄や恥じらいすら感じずにごく自然と口にしたことがあっただろうか?と…。
身寄りや血縁一人居ない彩の人生で、それは本当に幼き日にしか許されない生きてゆくに当たって触れるだけでも危険で怖ろしい掟に近いことだったからだ。
でも今は違う、と彩は思った。
言わずにはいられない、
伝えずにはいられない、
私の中にある今一番大切な真実を…。
彩はもう一度確かめるかのように抱きしめたエミリーの腕の中で囁いた。

『大丈夫よ、たとえ貴女が何者であっても私はもう構わない、
私は貴女を置き去りになんかしないわ、』
エミリーがそれを聴いて抗(あらが)うような言葉を何か小さく発したのが聴こえたがなんと言ったのか、
はっきりとは聴こえなかった。
彩は自分の中で誰にも譲れない、
譲りたくないこの重大なことを、
今この瞬間にエミリーが泣いている今この時こそ伝えなくては、と思った。
ああ、それはなんて容易いことだろう、
清水から飛び降りる?いいえ、
むしろ云わずにはいられない、
ちゃんと伝えなくては、
エミリーに自分の気持ちを伝えたい!
自分を愛して受け入れて欲しいからだけではない、
私の心を理解して安堵して欲しいからだ。
エミリーの怯えを癒して上げたいからだ。
今までの私はただ自分も愛されたくてそれを請い願うばかりだったのに、と彩は思った。
彩は心の中でそんな自分の変化に、あふれるような多幸感さえ感じながらエミリーを抱きしめたまま、背伸びをするとエミリーの耳に唇を押し当てて言った。
抗うような素振りをしかかっていたエミリーはその言葉を聴いた途端、泣き崩れ、そのまま彩の抱擁に身をゆだねた。
彩の言葉はただこれだけだった。
『貴女を愛しているわエミリー、
心から、誰よりも』





(To be continued…)
  

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