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小説『エミリーキャット』第58章・心の眼帯

大塚梗子(おおつかきょうこ)というその少女は、
普段、温和しく無口なほうであったのでエミリーは同じクラスメイトと云えども梗子とさほど話す機会が無かった。
席替えを通してふたりは隣席同士となり、自然とそのなりゆき上、ポツポツと話をするようになっていった。
そしてエミリーは梗子がどうしても文字が読めないことを知った。
その為、国語の授業を梗子は酷く怖れており、教師から『はい、
では、次の行から大塚さん、
読んで下さい』
等と言われると梗子はたちまち色蒼褪め、唇までもがまるで長くプールに入っていた後のように灰色がかった紫いろと化し、手足もぶるぶると震え上がって机や椅子までもがそのせいでカタカタと梗子の震えに連れて音を立ててしまうほどだった。

英語と違って日本語の読み書きには問題の無いエミリーはどうしても教科書が読めずに震えながら、隣で固まっている梗子に屏風のように立てた教科書で顔を隠しつつ横から小声でこっそり教科書を読んで教えるということが増えていった。


『どうしてこんなことが読めないのかしらね?貴女どこかおかしいんじゃないのっ?もう一回一年生からやり直す?はいっ!大塚さん、
もう一回最初の行から読み直して!声も出ていないわよ!
しっかり!』
と平成では考えられない鋭い叱咤以上の言葉が教師の口から次々鞭のように飛ぶのを受け止め切れずに梗子の頬に泪が止めどなく流れた。
算数やその他で苦闘し、必死で努めながらもいつも激しい叱責と悪罵しか受けることがないエミリーはそんな梗子の泪が他人事(ひとごと)のように思えなかった。

エミリーは梗子にだけ聴こえるよう声をひそめ、横から小声で教科書を先んじて読み、教師からも他から気取(けど)られぬよう密かに気骨を折って伝えていたがそんなことを通じてエミリーと梗子は徐々に親しくなっていった。

理科の実験室へと向かう廊下で後ろから教科書とノートブック、
筆記用具一式を胸に抱いた梗子がエミリーに追いすがってきて親しげに話しかけた。
こんなことは初めてでエミリーは驚きの余り怖気立(おぞけだ)ったように振り返り、緊張のあまり手足が交互ではなくギクシャクとまるで玩具(おもちゃ)の兵隊のように同時に揃って出てしまっていることに気がついてエミリーは真っ赤になった。

いつも涙で濡れ光った目知らせの目礼だけに徹していた梗子がエミリーがたゆまぬ陰からの援護を送り続けることが余程、嬉しかったのだろう、梗子の笑顔も声も晴れやかに弾んでいた。

『ダルトンさん、ダルトンさん
さっきはどうもありがとう!
お陰で今日は先生に怒鳴られないで済んだわ、いいえ、さっきだけじゃないわ、いつもいつも…
必ず読み方を教えてくれて…
他の人達は教えてくれたりそうでなかったり…その時によってまちまちなの、だけどダルトンさんはいつも絶対助け船を出してくれる!
そんなことしたら自分だって怒られるかもしれないのに、
ああ、このままずっと私、ダルトンさんの隣りだったらいいのになあと思うわ、今度の席替えが怖いくらいよ』
『よかったわ、
私のヒソヒソ声が先生に聴こえなくて、もし聴こえたらどうしようとずっと読みながら私も怖くて…』
『ダルトンさんの声、ほら、
音楽の授業でも先生に言われていたじゃない?子供にしちゃ低い声だから貴女はアルトねって、
だからあういう時には凄く…
そういう声が役に立つのよ!』
エミリーは“机や椅子が貴女が震える為にカタカタとまるでカスタネットのように鳴るからその音に紛れて教えることが出来るのよ”
と言いかけてふとその言葉を飲み込むと空惚けてこう言った。
『そうなの?
よかったわ、なんだか赤鼻のトナカイにでもなった気分』
『赤鼻のトナカイ?』
梗子は思わず笑った。

『ダルトンさんて面白い』

笑った後、梗子はふと憂鬱な真顔に戻ると言った。
『毎回、国語でなくても教科書を読めって言われるたびに私、
吐きそうになるの、本当よ、
今まで本当に吐いたことは一度も無いけどもし吐いちゃったらどうしようっていつもビクビクしているの、
今日は本当にもう吐きそうで…
危なかったのよ、
でも吐かずに済んだのはダルトンさんが上手に教えてくれたから、』
『解るわ、私も算数の計算を黒板の前に出てみんなの前で解きなさいって言われるの、大ッ嫌いよ、
いくら黒板の前に立って叱られ続けていたって解らないものは解らないんですもの、どんどん気持ちが暗くなって落ち込んでいっちゃう…
蝋燭のように溶けて縮んで燃え尽きて…
私なんかこのまま消えて無くなってしまえばいいのにって感じてしまうくらい恥ずかしさと自己嫌悪とでごちゃ混ぜのいっぱいになっちゃうの』

『でもダルトンさん、
ピアノ上手よ、
私、いつも凄いなって思って見ていたの、
それに貴女、綺麗だし』
『綺麗…私が?
ありがとう…嬉しいわ、
みんな私のこと気持ち悪いって言うけれど…』

『そんなことない!』
梗子は一瞬驚いたように瞠目したが、次の瞬間愛らしい声でまるでポップコーンが弾けるように笑った。それを心地好く耳に眼に感じながらエミリーは言った。
『…私がまるで妖怪みたいな眼をしてるのを不恰好な色眼鏡で隠していて、ただでさえ不気味なのにそれが輪をかけて不気味なんだって言う女の子達は居るわ』
『そんなこと言う人達って一体誰?可哀想な人達ね、
人のあら探しにばかり熱心で…
噂したり、陰口叩いたり、
何人もで寄り集まってグループみたいにならないとそんなこと一人じゃきっと言えないのよ、
その癖、徒党を組むと途端に強気になるの、

本当は薄汚ない卑怯者なんだからそんな連中、気にすることなんかないわ、
それに素敵よ、その眼鏡、
なんていうのかな、
難しい色のレンズなのね、
紫がかったグレーみたいな…
その癖、茶色に見える時もあるしグリーンやブルー、時々ピンクやオレンジや日光の下だと黄金(きん)いろに光って見える時もあるの、
光の加減でいろんな色に見えて、…玉虫いろの眼鏡じゃない、
まるで…鳩の胸か…孔雀の羽根の色のようだわ』
『鳩と孔雀?嬉しい、素敵ね、
私は孔雀よりも鳩や雀のほうが好きだけど、だって優しい鳥じゃない?
でもそんな風に言ってもらったの初めてよ、

弱視の眼を守る為の特別に誂(あつら)えてもらった眼鏡だから、私にはこれが無かったら、とても困る眼鏡なんだけど、
でも普通の眼鏡のように無色透明じゃないし、だからどうしても悪目立ちしてしまうの、
だから本当は嫌いなのよ、
みんなからは子供なのになんで一年中サングラスなんか掛けているの?
なんて言われちゃうし…恥ずかしくって…』
『私、思うんだけどダルトンさん、眼のこと、気にすることないわ素敵じゃない、
右目が碧(あお)で左目は茶なんて素敵よ!』
『イヤよ、こんな眼…
実際に貴女もなってごらんなさいよ、みんなからびっくりされたよにじろじろ見られて悲しくなるから……。
眼鏡をかけていたらかけていたで、何故あの子はあんな色のついた変わった眼鏡をかけてるんだろう?ってじろじろ見られるし、眼鏡をしてなきゃもっと見られるし、本当に芯から驚いたみたいな顔でみんな私を振り返ってまで見るのよ、そんな時、本当に本当に悲しくて…消えて無くなりたくなることがあるわ…』

『ごめんなさい…
ダルトンさんの気持ちも考えずに無神経ね私ったら』
『ごめんなさいこちらこそ、
いいのよ、大塚さんせっかく誉めてくれたのに…無神経なのは私のほうだわ』
『ダルトンさんって不思議ね』
『どうして?』
『貴女、確かにみんなが言うように普通じゃないかもしれないけれど…多分そこがいいのよ』
『……』
『ダルトンさんの眼だってそうよ、ねえちょっと眼鏡外して見せてくれない?』
と言うなり梗子はエミリーの許可も無しにその眼鏡を両手で支え持つようにそっと優しく外してしまった。

するとエミリーは、何やら情けないような眼つきで伏せた濃い蛾の触角のような睫毛をそっと上げるとまるで誤って溝に落ちたずぶ濡れの仔犬のように悲しげで卑屈な眼をして梗子を見つめ返した。

『ほうらね、やっぱり、
とても神秘的よ、まるで…
トルコで見た猫の眼みたいだわ、
右の瞳はアクアマリンで左は…何かしら?
ママの持ってる指輪の石、えっと…トパーズと似てるかも!』
『私はアンバーだと思ってる、
アンバー好きだし』
『アンバーって何?』
『日本ではなんていうのか解らないわ、中に葉っぱや虫が入ったまま固まった宝石ではない…化石でもないけど…なんかそんなのなの』
『琥珀ね、多分そうよ、
琥珀いろの瞳だなんて素敵じゃない、神秘的で綺麗なダルトンさんにぴったりよ』
『大塚さんだって可愛いわ、
いつもその…兎みたいなツインテイルが似合っていて羨ましいなって思っていたの、
私はそういうの全然似合わないんだもの』エミリーは梗子への無自覚なまでの淡い恋情を更なる無自覚から“羨望”という一見さも少女らしい言葉という隠れ蓑(かくれみの)で咄嗟に隠しながらそう言った。
無自覚であるにも関わらずこのような“女の子らしい”隠れ蓑の中へ逃げ込むたびに自然を装う辛苦が彼女の心身を密かにぎりぎりと絞めつけた。
‘’何か‘’が自分ではないのはとても苦しいことだった。
だが幼い頃からエミリーにはそんな苦しみが多過ぎた。

『嬉しいわダルトンさん、
私なんかを誉めてくれて』
『なんか…じゃないわ、
大塚さんは可愛くてとてもその…
素敵よ』
『ありがとうねえダルトンさん、こんな私を誉めてくれたから私、いいことを教えて上げるわ、
いつも国語の授業中も助けてもらってるし』
『いいこと?』
『ええ、実はね私お兄ちゃんがいるんだけどお兄ちゃんは戦国武将マニアなの、』
『戦国武将?』
『サムライのことよ、
それで教えてくれたんだけど伊達政宗っておサムライさん知ってる?』
エミリーは頭(かぶり)を振った。
『その人はね、右目に黒い眼帯をつけていたことで有名なんだけど戦(いくさ)で目を負傷したから眼帯をつけていたという説と…
あともうひとつこんな説があるの』『うん何?』
それのどこがいい話なんだろうとエミリーはどこか霧がかかったような頭の隅でぼんやりと思った。貴女が私と嫌がらずに向き合って普通に接してくれているほうが、まるで奇跡みたいに私には“いいこと“なのに…エミリーはそう心の中で呟いた。

『伊達政宗は片親がハッキリと解らないって説があって実は合の子だったんじゃないかって言われているらしいの』

『そうなの?』
と、内心少しも興味をそそられないエミリーは音楽や絵画や猫や森や天体の話が梗子としたいのに、とつくづく残念に思った。
しかしそのことに露ほども気づかない梗子は熱心に言葉を続けた。
『もちろんその説が本当かどうかなんてもう解らないのよ?
だけどガイジンの血が混じった合の子は時々、貴女のような左右色違いの眼をした子が生まれることがあるんだって、
実はね私も貴女ほど左右差がはっきりとはしてなかったけど、トルコに居た頃そういう男の子を見たことあるの、
お父さんがトルコの人でお母さんが韓国の人だと言っていたわ、
とても不思議な眼をしていると思ったけれどダルトンさんのほうがもっと色の違いがはっきりとしていていて…
違う人種の血が混じった子って猫にもあるけれど時々アンバランスな形や色や他の‘’何か‘’になって現れることがあるのかもね、
オッドアイの猫なら金眼銀眼だけど、ほら、青いほうの眼に近い耳だけが生まれつき聴こえないって言うじゃない?オッドアイの猫は外国種の血が濃く出てあんな風になるんでしょう?
眼の色が左右違うだけならいいけれど片耳が聴こえないままだなんてきっと血の悪戯なのかしらね?』

『……血のせいだけなんかじゃないわ…だって普通の合の子だってたくさんいるじゃないの』
とエミリーは心の中で思い、
心の中で心の中の唇を心の血が滲むまで噛みしだいた。

そんな心中とは裏腹に平静な顔をしているエミリーを尻目にそのエミリーの胸中には露ほども気づかない梗子は続けて言った。

『それでその伊達政宗ってお侍さんなんだけどね、
透き通るほど色白の彫りの深い目鼻立ちのハッキリした美男子だったって言われていて、生まれつきの片目がまるでオッドアイの猫みたいに青いことを気にして黒い眼帯で一生隠していたってお兄ちゃんから聴いたの』

『……』
『合の子って、ダルトンさんみたいにああ半分ガイジンなんだなって解りやすい見た目の子も多いけど、中には黙っていたら合の子だって全然解らないような地味な子も居るじゃない?
全く純粋な日本人みたいに見える子…
でもね、傍にいてずっと長く見ていたら、やっぱりなんか違うのよ、
肌の色だけじゃなくて、肌理(キメ)っていうのかしら、
なんか…どっか違うの、別にそれがいいとか悪いとかいうんじゃなくて兎に角違うの
ハッキリとは解らないし正面からだと全く普通の日本人なのに横顔が全然日本人とは違っていてそれではっとして気がついたりとか、

だってとっても色白で目鼻立ちのくっきりとした子なんて普通の日本人でもたくさん居るものね?
伊達政宗もね、
どうやらそういうタイプの人だったらしくて、だから年頃になった時、
身近で正宗思いの家臣がその青いほうの目を隠したら純血の日本人と変わりなく見えるのでそうしたほうがよいと眼帯をすることを勧めたらしいの…
それで正宗は片眼を隠すようになったんですって』

『可哀想…そんなの…可哀想だわ、何故隠さないといけなかったのかしら、悪くもない眼にそんなことをしたら不自由じゃない』
『そうよね、私もそう思う、
カタッポの眼だけブルーなんてイカしているだろう?って言えない時代だったのね、
まあ、今だってそうだけど…。
でもダルトンさんの眼はとってもイカしているわよ、私はそう思う。』
『‘’イカしてる”ってどういう意味?クールってこと?』
『う~んよく解らないけどそうね、多分ねカッコいいってことよ』『じゃあクールね、
嬉しいな、そんなこと言われたの初めてだからありがとう梗子さん、梗子さんって呼んでもいい?』
『もちろんよ、ガーティさん』
梗子はやや吊り目気味の肉づきの薄いすっきりとした一重眼と、
小鼻の膨らみの目立たぬ鼻と唇もやや小さめの、俗に“卵に目鼻”と呼ばれるような少女だった。

関西から引っ越してきたという彼女は最初のうち大阪弁を喋っていたがお笑い芸人みたいとからかわれるのを厭うてやがて関西弁を封印してしまい、標準語を話すようになっていった。
だがところどころ、なんとなくイントネーションが違うかのがエミリーには新鮮に感じられた。
エミリーはどういうわけだか転校生が好きだった。

しかも好ましく感じる転校生は決まって少年よりは少女で、見た目は必ずといっていいほど長い髪、
ポニーテイルかツインテイルの似合う少女、結い上げていなくても艶のある美しい黒髪を伸ばしている少女が好きだった。

吊りスカートやサロペットスカートにハイソックス、あるいは足首で折るタイプの白いソックス、
その場合はスニーカーではなく足の甲に真一文字にストラップの走る黒の革靴などを履いていて欲しかった。
滅多にそういう少女は居なかったが、梗子は運動靴ではなく黒の革やスエードの靴を履き、ワンピースもピンクや赤ではなく白襟の紺やグレー、少しくすんだサックスやバーガンディや時には上質の仏蘭西レースの白襟がたっぷりとついた黒のベルベットのワンピース等を着ていることもあり、大人っぽくニート(きちんとした)な雰囲気の服装が多かった。
父親が外交官で子供の頃には香港やトルコに住んでいたという梗子は5年前は僅か一年ではあったもののパリにも居たという。

ふたつに下のほうで束ねた黒髪には目立たない黒の細くて小さな天鵞絨のリボンをつけてちんまりと全てが上品にまとまった古典的な女雛顔の梗子が初めて転校生として教壇の上で紹介されるのを見た時、エミリーは妙に胸の内でざわざわと風を受けて野面(のづら)の丈の高い草が一斉に海の波のように揺らぎ騒ぐようなと同時に苦しい胸の痛みに近い疼(うず)きをも感じた。

『でも駄目よ、きっと友達になんてなってくれないわ、
私が一桁の計算も出来ないと知ったらあの子も私を白い眼で見るに決まってる、
あんな綺麗な子が私なんかを相手にするわけ無いんだわ』

エミリーはそう思い、自分から梗子に話しかけることは無かった。隣同士の席になるまでは…。

梗子は『ダルちゃんって呼んでもいい?』と言い、やがてふたりは『ダルちゃん・キョウコ』
と呼び合う親友同士となった。

ある日ふたりは音楽の授業が終わっても音楽教室に残ってピアノの前にふたりで並んで座ったまま話続けた。
『ねえキョウコ、
私の一番の友達をキョウコにも紹介したいから今度の日曜日一緒に行って欲しいとこがあるの、
とても素敵な人よ、総合病院のガードマンをしているの、』
『大人の人なの?』
『ええ、七十ニだって言っていたからもう大人だと思うわ』
『ええ?七十ニ??
ねえ、ダルちゃんその人とよく逢ってるの?』
『逢ってるっていうか…
ええ、その総合病院の前の丘や…
時々は喫茶店でも』

『喫茶店!?』
『えっ?なんで?おかしいの?』『おかしい、そんな…
だって大人の…それもお爺さんでしょう?普通小学生がお爺さんと友達になんかならないよ』
『でも…ケンイチさんは優しくてとてもナイスガイよ、一緒に居て楽しいもの』
『だからといって…ねえ、ダルちゃん生理もう来た?』
『セイリ?ナニそれ』
『そうか、まだなんだね、
だからなのかな…
ダルちゃん見た目は大人っぽいけどなんだか話してるとまるで小さい子みたいに感じることが時々ふっとあるの、
確かにまだの人も居ることは居るけれど、私達もう六年生でしょう?だいたい来てるみたいよ、
早い子は五年生でもう来てる子も居るって云うし』
『……じゃあ…』
と言いかけてエミリーはその先の言葉を飲み込んだ。
本当は中学一年生なのに…
エミリーの言葉にならなかった言葉は胸の内側で独り谺(こだま)した

実際にエミリーの初潮は16歳の誕生日も近づく15歳で訪れ、両親も心配し、婦人科医へ見せたほうがよいのかどうかと躊躇した。
婦人科医による内診でエミリーがまるで辱しめのように感じて深いトラウマとならないかと案じたビリーの最終的な決断によりもし16歳まで初潮が来なければ医師にみせよう、だがそれまではまだ様子見をしながら待とうということになった。

『五年生の時からずっと仲良しなのよ、ケンイチさんは私のベストフレンドなの、お爺さんなんて云わないで、
関係無いわそんなの、
とてもインテリジェントな人だしR&Bやその他の音楽についても教えてくれるし』
『ナニ?それ』
『R&Bよ、アメリカの音楽…』
『そんなことよりみんなと一緒にジュンとネネの話したくない?
ダルちゃんはどっちが好き?
ジュンとネネと』
『それ…誰のこと?』
『じゃあ、ジュリーは好き?
カッコいいよね、綺麗だし』
『ジュリーってどこの国の女の子なの?』
『女の子じゃないのよ、
ジュリーは男よ、本当は沢田研二っていうの、もとタイガースの人でとてもハンサムよ』
『そうなの?
じゃ、ジュリーは関西のベースボールプレイヤーだったのね?』
『違うわよ、そっちのタイガースじゃなくって』と云いかけて梗子はため息と同時に説明を諦めた。

『ケンイチさんも…ハンサムっていうのではないかもしれないけど…
その…とても綺麗よ、』

『綺麗?お爺さんなのに?』
『でもケンイチさんはとても綺麗な色を持っていて…時々、喋る内容によって言葉の波動や色は変わるけれどでもケンイチさんのベースとする色はいつも…』

と言いかけてエミリーは自分が奇妙なことを話し、奇異の眼差しで梗子からしみじみと凝視されていることにはたと気づいた。
梗子からいつもとは違う不穏な色を感じたが、エミリーはそれから眼を反らす為に咄嗟にピアノの蓋を上げ、鍵盤に指をただ乱舞させることに没頭した。

その音も不穏で不安な自分の感情を現すものだが、少なくとも梗子から感じる色やその色が表す不安感を打ち消す効果はあった。
そして彼女は思った。
『このことは誰にでも言っていいことではないのかもしれない、
黙っておいたほうがいいことなんだわ、益々気味が悪いと思われてしまう…』

エミリーは梗子のさも奇異なものを視るようなその距離のある眼差しに深く傷ついた。

だが、おかしなことに傷ついたということはもしかしたら
許されないのかもしれない、
とエミリーは思った。
おかしいと思われることこそ自然で、それに対して慄然とするなんて、だったら普通にしなさいよと反論されてしまうであろうことはエミリーだってうら若いなりに蒐(あつ)めてきた今までの経験上よく知っていることだった。

でもそんなのおかしい!
とエミリーは心の奥底で叫んだ。

『それなんて曲?』
『解らない、適当だから』
梗子はエミリーが驚くほど素っ気なく言い放ったので一瞬驚いたような顔を見せたがそのまま黙って音楽室を出ていった。
ふたりの間にそれ以降、微妙な溝がそこはかとなく生まれてしまった。

四捨五入が出来ないことで生じるからかいという微傷からやがて、陰惨な虐めは、始まり、そして拡がってゆくのだ。






…to be continued…


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