小説『エミリーキャット』第49章・鴉・・・何故泣くの?
濡れた頬を指先や手のひらでぞんざいに拭うと、彩は何事も無かったかのように窓外に目をやったが、郊外のやや辺境といっても過言ではない場所である。
周りはガードレールに区切られた深い叢(くさむら)と、遊歩道に沿うように部分的にやや荒れた感じもする雑木林が鬱然と奥深く続いているのが見える。
しばらくタクシーが走るうち道路脇に『ここ一帯、禁猟区域につき野生動物の保護…云々』という立て看板があり、通り抜ける車中からそれを見た彩は何故だかホッとした。
ロイ達は野生動物ではないものの、
気まぐれな猫のことである。
もしかしたらビューティフルワールド以外の外の世界も絶対低徊しないとは限らない、
エミリーはロイ達は賢いのでビューティフルワールドの敷地外へは出ないと言ってはいたものの、その『保護』という言葉を目にして彼女は何とはなしに安堵した。
しかしそのおよそ1分後、
彩は心の中で『あっ』と思った。
なんだ、ロイ達は既にもう大丈夫なのだ。
…彩は思わず改めて胸を撫で下ろした。
彼らは今や人間様なんぞに保護される必要の無い次元の存在なのだ。
彩は芯からそのことを不思議に感じた。
宝石が顔を顔をしかめて恥じ入いるのではないかと想像してしまうほどに輝くばかりの瞳達は、色とりどりで各々の個性やきめ細かな愛情や友情をその奥に宿らせながらさながら小さなキャンドルの焔のように優しく見る者の心の中にまでその焔は同時に灯る。
愛くるしい表情、時に笑いを誘う滑稽な姿態を見せ、優美を知らぬのに優美な仕草や歩調。
温かく柔軟な肉体と絹やベルベットを思わせる毛並みを持ち、
生き生きとして活発な彼らが…と彩は思った。
彼らは駆け回り、よく眠り、よく遊び、おまけに旺盛な食べっぷりでもあったのに…。
そしてつい今しがた抱いたばかりのロイのずっしりとした健やかな重みと心地好い温もりや泣きながら思わずキスした時の猫の眉間の柔らかく指でずっと触っていたくなるようなその独特の感触が今も彩の唇にも、頬にも、手のひらや腕、胸、そして顎の下にさえ残っていることを彩は泪が流れ落ちそうな思いの中、
もう一度心の中でそれらをしっかりと抱きしめた。
もう世俗的な心配は彼らには無いんだわ…と彩は心の中で今は居ないロイの面影を愛情いっぱいに抱きしめながら心の中でそう呟いた。
少なくとも交通事故の心配なんか彼らにはもう無い、動物に虐待をする鬼畜以下の人間が今の時代、現存するものの、
その時代が生んだ魔の手から愛猫達を守る為に世の人々のように完全室内飼育だなんだと自由奔放な猫達の脱出への試みに頭と心を痛める必要は彼らに対してはもう不要なのだ。
普通は自分が愛しいと感じる動物達が既に生きてはいないと知ったなら、悲しみと嘆きがとめどなく湧いてくるものなのにこの件に関してだけは違っていた。
彼らはもう‘’天国の猫‘’なのだ。
もしかしたら天使そのものなのかもしれない、
いえ、と彩は思った。
猫は天使というよりも妖精に近い、
ニンフは人を支配もしないが、かしづきもしない。
悪戯好きで優美で気まぐれで自由奔放だ。と同時にとても繊細で愛情深く、
自由で気高い魂は時に人間など凌駕した存在なのではないかとすら感じさせる。
よかった…と彩は思った。
エミリーも大切な彼らの健康や暮らしを守る為に独りで頭や心を痛めたり奔走する必要も無いのだ。
そして恐らくはエミリー自身も彼らと同じようにもうそうした心配は不要なのかもしれない…そうであって欲しい、
と彩は祈るような気持ちになった。
しかしそう願うことは同時にまだ生きている自分とは一体どうやって共存してゆくというのだろう?という不安や怖れに繋がるのが自然の理(ことわり)のはずなのに、何故か彩の中にそれは芥子粒(けしつぶ)ほども無かった。
それには…と彩は他人事(ひとごと)のように思った。
‘’私もエミリーと同じ、ゴーストになればいいんだわ…‘’
どこかピントの甘い奇妙な安堵と納得感の中、彩はいつの間にか眠ってしまった。
ほんの数分だったのであろう、
彩はがくんと目には見えない階段を一段踏み外すような感覚を覚え、ひやりとして目覚めた。
夢とも云えない浅い緊張した仮眠をいつの間にか無意識にたゆたい、彼女はその感覚にビクッとしてピンヒールを履いた片足をまるでブレーキを思わず踏む時のように動かした。
『大丈夫ぅ?』
運転手がミラーごしにそんな彩を眺めながら声を掛けてきた。
『ええ、ついうとうとしてたみたいで…』
『お疲れみたいだねえ、
俺もあるよ、
寝ててガクッとなること、
あれヤダよねぇ、ギョギョギョだよねえ』
『そんなに疲れてはいないんですけど…
明日からまた仕事かと思ったら…
なんだか憂鬱になってしまって…
そのせいかも…。』
運転手は朗らかに笑い、
『お客さん、
随分シックな装いだね』
と言った。
『…そうですか?』
彩は仕方無く笑ってみせたが笑える心境ではなかった。
今からエミリーと一ヶ月も逢えなくなるのだ。
そして決死の思いの慌ただしい心理戦の一途を辿る目まぐるしい嵐のような一ヶ月になるやもしれぬ。
でもそれもエミリーとのビューティフルワールドでの暮らしの為なのだ。
彩は今別れたばかりのエミリーの、普段は黒っぽい焦げ茶に見える髪のふわふわとした柔らかい感触をふと思い出した。
自然光の下では明るい褐色や小さな頭のその輪郭、そして髪の裾(すそ)、波打つ流麗な巻き毛のはらみの部分に光が当たると、そこだけ薄金いろを帯びて見える複雑な艶めきのブルネットの髪は木洩れ日の下、エミリーが歩くたび、色のニュアンスがときめく彩の鼓動のように移ろう。
一見黒っぽい髪が木洩れ日のシャワーを浴びると、金茶を織り込み、様々な光を集めた彩りと光のコミュニティのような色へとさんざめく。
また木陰へ入ると輝きは鎮静化し、
代わりに暗色の中、絹のような静謐な光沢だけが残る。
光の移ろいのたび、明暗と輝き、艶めきまでもが別人の髪のように移ろい、時に豹変し、彩はそれを横で歩いてまるで絵画のように眺めるのが好きだった。
容(かたち)のよい骨格が透けて見える色白の青年のような手や、節がやや目立っても優美でしなやかな長い指、
細長くどこまでもたおやかで女らしい首筋、
抱き締められた時にその首筋やうなじから本当に幽かに深く薫る麝香(じゃこう)のような匂いを思い出して思わず、涙ぐみそうになって彩はそれを耐えた。
彩は手の甲の血色がまるで蝋細工のように白濁するほど強く手指を握りしめ、
シートに深々と凭(もた)れると心の中で呟いた。
”大丈夫、一ヶ月…。
あと一ヶ月頑張れば…もう私はビューティフルワールドの住人、
エミリーの為だったら私はなんだって乗り越えられる、乗り越えて見せる、‘’
『お客さん、そのストールっていうの?シックでいい色だね』
運転手がいやに‘’シック“にこだわるので彩は些か、鬱陶しく感じたが女の服装を、やたらと誉めて間を持たせようとする運転手もごくたまに居るので仕方がないのだろう、こんな辺境では駅まで暫くかかる、気を遣ってくれているのだと思った。
『…ありがとうございます』
彩は内心ちょっと黙っていてくれないか、と思いながら詮索好きな運転手からの質問から逃げる為にいかにも眠りたいといった様子を見せて寝たふりをした。
だが初老の運転手は無邪気に質問を続けた。
『ボルドーっていうの?
その…ストールだっけ?なんだっけ?…その色…
ワインみたいな色だからそう云うのかね?
娘がねえ、いい歳して…もう今年の夏には42にもなるってえのにまぁだ結婚する気配も無くてね、
まぁ銀行員だから堅い仕事だし、
周りはハゲデブチビのジジイばかりで出逢いも無いんだって本人は言ってるけどさ、
自分だって42でしょう?
人のこと言えた義理じゃないよねえ、
そう言ってやったら『ジジイでも別にいいのよ、豊川悦司や舘ひろしなら、
キモ過ぎんのよ、銀行の独身の輩(やから)はさあ、お客さんの前じゃ紳士ぶってても家じゃセーラームーンや綾波ナントカのフィギュア抱いて寝てるの、私達に自慢するのよ、
ナイナイ、絶対無いね』
なんて吐いて捨てるみたいに言い切っちまうんだからね、セーラームーンくらいいいじゃないか、ヨソの女抱かれるよりゃマシだろうがって言っても『生身の女に興味あるほうがまだマトモよ、
バーチャルのほうがが可愛くてい-の、なんて言う男のほうだってこっちに興味なんか持つわけないでしょう?
持たれてもお断りだけどね、
あんなのとデートするくらいならそこいらに落ちてる犬のウンコとデートするほうがずっとマシよ
だって私、犬、好きだし』
………ぬぁんて言うんだよう!?
出逢いなんてお見合いパーティーでも行けばいいのにその為ならお父さんお金出して上げるよ?って言っても『あー……いい、いい、』と来やがる、全くやる気が無さそうなんだなぁ…
その癖、お洒落は熱心でさ、
ヨガだっけ?ティラミスだっけ?
習い事も肥りたくないし体型を維持する為なんだってせっせと幾つか通ってるけど、
その身体見せる彼氏が居ないんじゃさ?とはいえ、彼氏が居て娘のあの鍛え抜いた身体を拝まれるってのも考えると決して気持ちのいい話じゃないんだから、
父親ってのも勝手で矛盾した生き物だよね?』
彩は運転手に気づかれないよう小さくため息をついた。
‘’しっかりした娘さんなら彼氏だ結婚だ、ツマンナイことでストレス、娘にかけるようなこと云わないで、
好きなように生きさせてあげたらいいのに、それにティラミスじゃなくてそれを言うならピラティスなんじゃないの?‘’
と彩は代わり映えしない窓外の風景に薄目を開くと心の中でぼやいた。
運転手のお喋りはまだまだ外の景色のように連面と続いた。
『気の置けない女友達とワイワイがやがややれハワイだ、シンガポールだ、
ソウルだって旅行ばかりして…
母親連れて来年の春にはヨーロッパ旅行へ俺置いて行く予定まで立てちゃってるんだから困ったもんだね、
お父さんもどう?って誘われたけど俺は国内で温泉旅行がいいなあって言ったらアッソじゃあお父さんはまた今度ねって…
遊ぶことしか考えてないんだから、
ありゃもう駄目だね』
と運転手は笑うと『それにしてもなんだかまるで去年娘がしてたストーブだか、ストールだかなんだかの色を思い出すよ、
お客さんのその…首や肩の辺りにたっぷりと巻いてるその色見てると、』
『……?』彩はそこはかとなく奇妙な言葉を聴いた気がしたが今年はもう娘さんはボルドーに飽きたのかしら?と思った。
『その色もいい色だけど…
せっかくだからもう少し明るい色、
着たほうがいいよ、
お客さんまだ若いんだし俺の娘と違って色白でべっぴんさんだから、ピンクとか…パスカルカラーが似合うんじゃないかい?』
運転手は笑って言った。
『……パスカル…』と彩は小さく呟いた。
『ダスティピンクとか似合うんじゃないの?娘がね、言ってたの、
今年の春はくすみ系のダスティピンクがいいんだよねぇって教えられちゃったよ、
おじさん、だからそんな言葉まで覚えちゃって…娘の言うことならなんっでも覚えちゃうから』
と運転手は愉しそうに笑った。
なかなか結婚しようとしない娘のことが本当は大好きなのだろう。
『ピンクって歳かねえって言っても全然こたえる様子が無くてむしろ今度は嫁さんに叱られちゃったよ、
そんなセクハラ娘にするのなんて最低ですよ、あなた!とくらあ』
運転手は大笑いした。
彩は居眠りしたふりをしたまま思わず『そうですか』と言ってしまった。
彼女は内心しまったと舌打ちしながら”私は寝てるんじゃなかったの?
ナニしっかり答えてるのよ?
もうイヤ、
わけの解らないおじさん少し黙ってて、今、お喋りをあなたとする気持ちじゃないんだから、駅につくまで静かにさせてよ”と思った。
暫く彩の気配を察したのか?静かにタクシーは走っていたが、
運転手の割れ鐘のような大きな声にまた彩はげんなりしながら眼を開けた。
『お客さん、ほらここいら見てみてよ、綺麗でしょうが?』
彩は渋々運転手が顎をしゃくって指し示す方角を眺め、思わず戦慄して身を起こした。
一瞬それがなんのことなのか頭の中が真っ白になり咄嗟に理解が出来なかったが、それらは紛れもなく道路沿いに小高く立つ土手の両脇に林立する今を盛りと咲き誇る桜並木であった。
『…嘘……』
彩は思わず桜並木が見える側の硝子窓に張りついた。
夜桜ならではのライトアップのもと、
桜の小花が寄り集まり毬状となった花房が春寒(しゅんかん)つのる夜風に揺れ、宵闇のもと蒼白く浮かび上がるその様は昼間見る、華麗な中にも清楚な桜の風姿とはまた違って酷く妖艶だ。
昼と夜とでこんなに怖いほど容姿の変わる花は他に類を見ないのが桜である。
その蒼白い花びらがタクシーの窓の傍を白い蝶そっくりにどこか不安定に舞いながら通り抜けていった。
『今からみんな夜のお花見だねえ、』
という運転手の言葉はもう彩の耳には聴こえなかった。
‘’何故?どうして?
だって私は11月の金曜日の夕刻から…
ビューティフルワールドへ行って、
そして今は日曜日の…確か六時をもう回っているはず、わけが解らない、
ああ、私はまた夢を見ているの?
そうだわ、きっとそうよ、‘’
桜並木のもと宴をひらく人々の賑やかな円居(まどい)を土手の上に見た彩は思った。
‘’もし…これが夢ではないとしたら…
ああエミリー解らない、
これは一体どういうことなの?‘’
『ここから駅には…もう近いですか?』彩は運転手に呆然と訊ねた。
『ああ、もうここからだと徒歩で…十分と経たないかな、お花見でもして帰る?停めてあげようか?』
まるで父親のような口振りだ。
『ええ、ここからは歩いて帰ります…』
桜並木の続く土手の上はライトアップで煌煌(こうこう)と照らし出されてまるで昼間のように明るかった。
夜桜のもと、酒宴を始めたばかりの人々は既に微酔しており高らかに歌い踊る者までいる。
周りでそれを応援するように、あるいはおざなりのように手を叩いて拍子をとる人々も
やはり一様に顔が赤い。
その傍を風情のある篝火(かがりび)が焚かれ、
火の粉が金粉のように宙に舞い夜空の上へ登って消えるのを見て彩は思わず立ちすくんだ。
微酔したサラリーマンやOL達は、ビニールシートやイグサ編みの御座の上へ座って飲食しながら、ただ独り茫然自失となって佇立する彩に訝(いぶか)しむように奇異の眼を放った。
夜とはいえ春爛漫のこの晴れやかな場に彩は漆黒のトレンチコートにボルドーのストールを深々と巻き、連れもなく青い顔をして独り、
立ちすくみ、賑やかな花見の宴の場に置いて、
明らかに浮いていた。
‘’どうしたのだろう?この人…‘’
といった視線を痛いほど感じながらも彩はそんなことはどうでもよかった。
低く彩の胸元に枝を伸ばす桜の花房に彼女は恐る恐るといった手付きで触れてみた。
するとその向かいの土手の斜面に立つ桜のごく低い木の枝に一羽の鴉が留まっているのが目について、彩は凍りついたようにその鴉を見つめた。
鴉はよく見ると片方の眼だけが碧かった。そしてその碧い眼から涙を糸雨のように一条(ひとすじ)地面へと落とした。
『…エミリー?貴女なの?』
そうハッキリと呟いた彩を、人々は振り返ってまで怪訝(けげん)そうな視線を盛んに送ったが、人々には鴉は見えていないようだった。
イリュージョンの鴉はいきなり蒼光りする漆黒の翼を、真横に大きく伸びやか
に拡げたかと思うと、彩に向かって
ゆったりと、羽ばたきの音も立てずに
まるで影のように飛んできた。
一瞬、鴉は透明化し、彩の躰をさながら幻のように突き抜けていった。
彩の中を鴉が通り抜ける時、彩は鴉の羽ばたきをその感触や、やおら昂(たか)まるその羽音と共に躰の中に強く体感した。
羽ばたきだけではなくその体温も嘴が彩の中をすり抜けていく感触もすべらかなまるで水滴を弾(はじ)くほどオイルコーティングされたような羽根の表面の感触も、弾力性のある小さな肉体や鉤爪を持つ固く乾燥した脚も柔毛(にこげ)をそばだてた胸元のはらみも、全てが彩の中へめり込み、透過して、そして突き抜けていった。
それは固めのゼリーの中を柔らかく無害な弾丸がゆっくりとゼリーを貫(つらぬ)いて行ったかのようであった。
痛くなどなく、ただ自分の中をハッキリと鴉という鳥の感触が羽ばたきが巻き起こす涼風と共にスローモーションで突入し、彩の中はそれによって撹拌(かくはん)され、やがてそれが通り抜けてゆくのを目には見えない色鮮やかさで彩は体感した。
その時に彩は鴉の深過ぎて癒えない哀しみと血を流し続ける孤独とを、鴉と同時に体感し、痛感し、鴉が自分の中を通り抜け、飛び去ったと同時に我が身のことのように会得した。
まるで感染するかのように…。
その瞬間、彩の心の中にエミリーの声が水面にたちまち拡がる波紋のように滲んで消えた。
『彩、ごめんなさい、貴女を帰したくなかったの、』
ふと気がつくと彩の足元にビューティフルワールドから帰る時にエミリーに返した、あの琥珀のイヤリングが片方だけ落ちていた。
彩は佇むとそっとそれを拾いあげた。
その瞬間ふとエミリーの言葉を思い出した。
『…私達はきっと幼い頃から繋がっていたんだと思うの、
ただそう思いたいだけなのかもしれないけど…でも時空を超えて…私達は出逢い…今こうして強く繋がっている、
まるでロケットペンダントのように、』
エミリーはその想いをこめて敢えて片方だけのイヤリングを落としていったのだろうか?ロケットペンダントの蝶番(ちょうつがい)を敢えて壊し、その片割れをまた逢うその日までと手渡すように…。
あの鴉はエミリーの化身なのか?
それともエミリーの想いを乗せて現れた、あの花粉のブーツを履いた蜂のようにただの彼女の遣いか、メッセンジャーなのだろうか?
…そんなこと…
もうどっちでもいいと彩は思った。
ただ鴉が彩の中に残していった深い深い哀しみはエミリーのものであり、昔から彩のものでもあった。
ふたりは同じ心臓を持つ者同士なのだと彩は感じた。
そうでなければ、どんなに彼女が千の言葉を尽くしても万の言葉を尽くしても、エミリーの心が彩の中に無理なく注がれ、抵抗無く彩の血肉となり得たりはしない、と彩は感じた。
それらは全て思考ではなくあくまでも感じる全てのことなのだった。
考えず感じて自分の中に宿ったものは全て真実なのかもしれなかった。
それが仮に出鱈目だとしてもそのようにして感じて得た何かはきっとたとえ一脈であっても真実の鼓動を打っている。
そしてそれは今や彩の中で脈打つような生命感を持った。
『…エミリー…』
彩は地面に佇んだまま、片方だけのイヤリングを両手に祈るように握りしめ、
その手を額を押しつけて瞳を閉じた。
そんな彼女を人々は露骨な好奇と異様なものを見る目で見つめたが、彼女が地面へ落とした一滴の泪はただの桜の花びらにしか人々には見えなかった。
to be continued…
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