鳥好きの祖父が死んだ話。
今年もお盆が過ぎた。8月が終わり、夏が去った。
死んだ祖父の話をしようと思う。
私は関東地方の電車も通らない田舎に生まれ育った。
幼少の頃、家の柱や梁にはたくさんの釘が刺してあった。鳥かごを吊るすためだ。
祖父は大の鳥好きであり、死の間際まで鳥の話をしていた。祖父の部屋は布団の5センチ横まで鳥かごだらけで、かごの上にかごを重ねていた。
小鳥の他にも鶏、鳩、軍鶏、鷹などいろいろな鳥を飼っていた。その頃実家はボロボロの掘立小屋状態で、ご飯は土間で食べていた。なのにレース鳩の飼育のために庭に3階建ての鳩小屋を建てたりしていた。
小鳥がヘビなどに襲われる危険があるため、夜になると家中に刺した釘に鳥かごを一つ一つ吊るしていった。糞対策に畳の上には新聞紙が敷き詰められた。毎晩だ。そして朝、日の出とともに鳥たちは一斉に鳴きはじめる。鶏も早いが軍鶏も小鳥も早い。
幼いころはそれが自然な朝の光景だと思っていた。目覚まし時計もなく一日はそうして始まるのだ。
嫁いできた母のストレスは相当なものだったのではないだろうか。
祖父は愛玩目的の鳥好きとも性質を異にしていたように思う。彼は業務用の冷凍庫に鳥たちの死骸を冷凍保存していた。
時折、鳥好き仲間が訪ねてきたときは冷凍庫から鳥の死骸を取り出して「これは羽が美しかった」などと言って見せていた。キャットショーに情熱を燃やすブリーダーのようなものだったのだろうか。今となっては知る由もない。祖父の冷凍保存鳥のうち何羽かは猛禽類の餌に回されていたような気もする。
こう並べると祖父はちょっと異常な人のようだが、私にとってはいいおじいちゃんだった。祖父は私を溺愛していた。祖父はよくバイクに乗って幼稚園まで私を迎えに来た。短い髭の生えた顔でジョリジョリの頬ずりをし、冬は炬燵を空けて私が来るの待つような好好爺だった。
私は子供のころ動物とお絵かきが好きで将来は獣医になりたいと思っていた。(漫画家にはなれないと思っていた。)祖父に「5年生になったら誕生日に鳥を一羽ちょうだい」としつこくねだった。祖父はいつも曖昧にうなづいた。どちらかといえば拒否に近い相槌だったと記憶している。
結局私が鳥を貰える日は来なかった。
ある夏の日、授業中に先生に呼び出された。入院していた祖父の他界の知らせだった。私はその前年に曾祖母を亡くしていた。取り乱すよりもぼんやりとしていた。
ぼんやりしたまま、家からは鳥が居なくなった。祖父の死を境に家にいた鳥たちの大半は祖父の鳥仲間に引き取られ、残った何羽かの鳩は父が飼うことになった。
それから朝は目覚まし時計か親の声で起きるようになった。
日々が流れ、何かの拍子に祖父に鳥のことを質問しようと思いたった。そして祖父がもういないことに気づいた。
現実を理解するには時間がかかることがあるんだなぁと思った。葬式ですら感じなかった祖父の死を感じて悲しかった。
私が聴いた祖父の最後の言葉は「鳥が逃げていく。捕まえてくれ」だった。入院する前、まだ家で床に伏していたころの言葉だった。
鳥はみんなかごの中に行儀よく座っていた。祖母が何も言うなと目で私に訴えた。祖母は晴れた庭に出て「捕まえたよ」と、祖父に聞こえるように大きな声で言った。