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【長編小説】純粋な僕⑯

純粋な僕

「序」
二人の姿    ①~③
森の広場    ④~⑤
友達      ⑥~⑦
開かれた心   ⑧~⑨

「破」
破裂      ⑩
絵、好きですよ ⑪~⑫
大丈夫     ⑬~⑮
喧嘩      ⑯~⑳
丘の上に吹く風 ㉑~㉓

「急」
美術館で    ㉔~㉚
煉瓦を投げる  ㉛


喧嘩


翌日。学校に着くと、靴を脱ぎ、下駄箱に放り込んだ。

教室に入ると生暖かい空気と生徒達の視線、つまり、「どうしよ、昨日の男子でしょ、やばいって」と言いたげな黒目が飛び交う。僕は「まただ、やっぱり見てる。君たちは何してんの?」と心の中で言い、自分の席まで歩いた。
担任が遅れて来て、いつも通りの朝礼が始まる。

――どうすればいい。あやまればいいのか? 僕が彼らに。


――昨日、突然大声を出してすみませんでした、僕が悪かったです。許して下さい。

――はあ?

――冗談じゃない。

――俺は、殴られてたんだよ、宇多と落合に。大声出したのだってあいつが殴ったからで、俺はあいつに言ったの! クラスメイトに向けて言った訳じゃないから、それのどこが悪いの? やられたからやり返しただけじゃん。やり返したつっても俺は口で言っただけで殴ってないし。くそばかの宇多と落合が悪いんだよ。くそばかのあいつらが死ねばいいんだよ。

「あ………。言ってしまった」
「どうしよう」

チャイムが鳴ると担任と教師が入れ替わり、授業が始まる。
号令がかかると生徒達は音を立てて礼をする。座った生徒たちは大人しく顎を揃えて
黒板を見つめる。僕の瞼は彼らの後頭部を見ているときつく閉しまった。

――ねえ、ちょっと待って、僕は何も本当に死ねって思った訳じゃないよ、つい腹が立ったていうか、謝るのはおかしいと思ったからつい……。

――もう見下すのは昨日で終わった。心の奥じゃあさ、殴られてたことなんかどうでもいいことなんだよ。問題なのはさ、あいつらに死ねって思ってる俺なんだよ。こんなことで死ねって思うのも自分でもつまんないし馬鹿みたいだし。でもさ、いいところがないんだよ。それは俺のせい? 俺が性格悪いからいいとこ見つけられずにこんなに苦しんでるの? なんにもしてあげられないの? そういうもん? じゃあ悪いけど、本当に何もしてあげられないと思う。俺は落合にも宇多にもこのクラスの人たちにも、なにも感じないもん。

僕は左肘をつき、中指をそっと額に当てて目を瞑り、クラスメイト達をイメージした。どれも腰が引けたおどけたような顔ばかり。その中で斜め後ろからガムを噛む音が聞こえる。ぼりぼりぼり。唾液が絡み、口の中でガムが柔らかくなっていく様が目に浮かぶ。その音が自分の耳に届くだけで僕はどこまでも苛立ち、それを怒りに変えることができる気がした。
僕は授業が進む教室で、すっと手を挙げた。

教師は質問をした訳でもないのに手を挙げた僕を見て、
「新田くん、どうかしたの」と言った。
僕は「いいえ、なんでもありません」と言って手を下した。
教師は心配そうな面持ちで「そう」と言うと、振り返って授業に戻った。
僕の下ろした手には刃のついた斧が握りしめられていた。

――これだよ、これは危ないものだよ。僕は今これを手に入れた。もちろん、手を挙げて下しただけで本物の斧が手に入る訳ない。これはあくまでイメージの中での斧でね、これより意味のないものなんてないと思うよ。だって斧があれば誰かの首を吹き飛ばすのだって簡単だろ。さっき僕が死ねばいいって思った人。そういう人が浮かんだ瞬間、僕は斧が欲しいと思う。欲しいという気持ちと、クラスメイト達の黒目とか、ガムの音とか、そういう小さな種さえあれば、僕は斧を手に入れることができる。


――死ねって思ったことのあるクラスメイトを斧の前に来させてさ、『ちょっと目、つぶっててね』とだけ言ってひと思いにやってしまえば、それで終わる。宇多も落合も、簡単に死ぬ。でもね、それがなんだっていうんだ? 斧を使って首を飛ばして、それでどうなるっていうんだ。何も残りはしない。外れた首と胴体が転がっているだけだよ。斧の一番怖いところはね、そうやって僕の中にいつでもやっちゃえる可能性を与え続けることだと思う。でも、こうやって今、斧を手に入れた僕に欲求なんてない。ひと思いにやってしまえる可能性を得たまま何もしたいと思わない。やってしまいという怒りすら沸いてこないということは、本当にどうでもいいってことなんだよ、死ねって思うくらいが僕にはちょうどいい。それだけのものさ。そこに感情の起伏はあるのかもしれないけれど、それは突発的なもの。現に今の僕はとても冷静で、死ねとも思っていない。何も思っちゃいないよ、なんで手を挙げて斧を取ったのかって後悔してるくらいだ。ただ、ほんの小さなきっかけで手を挙げてしまったがために、斧を机の上に置いて眺めることになっているだけ。なんの感動もない。ということは、僕はね、きっと何もしてやれない人なんだと思う。死ねって思うだけで殺してやることもできない。何もできやしないんだ。


僕は机になだれ込むように額を押し付け、チャイムが鳴るまで寝たふりを続けた。

午前の授業が終わり、教室の生徒達はお弁当や売店で買ってきたものを食べながらおしゃべりをしていた。

「まぶしい」

僕はすっかり暖かくなった太陽の光を浴び、腕で目を覆った。

机を並べて楽しげに話をしている女子達。笑う時だけやたらと声が野太くなる野球部員。窓際のカーテンの中に入って一人でお弁当を食べている女子。口の中にものを入れたまま話す男子。左右の色があっていない靴下を足首からのぞかせながら笑う野球部員。

「ご飯食べよ」僕は呟いて、食堂に向かった。

元気が出そうなものにしようと、肉うどんを注文した。昨日のような思いもしたくなかったので、僕はうどんを受け取るとお椀と割り箸を持って食堂の外へ出て中庭の自販機の横のベンチに座って食べた。

――ああ、美味しい。昨日もおいしかったけど、外で食べるとより美味しい。

半分ほど食べてからお椀を置いて空を見ると、広く青い空が広がっていた。太陽は僕の髪や制服を温めた。
「絶対外で食べたほうが美味しいのに」

僕は食堂を見た。汚れた水槽のようなガラス張りの壁は、濁りながらも中の様子が透けて見え、端から端までぎっしりと生徒で埋め尽くされている。中にいる生徒が持つスプーンや腕時計なんかが、太陽の光に反射して時々ギラリと光った。その光の中に、僕はいくら見ても一つも動かずに光り続けているものを見つけた。よく見るとそれは人の目で、気付いた瞬間に僕は目を逸らした。宇多の目だった。血管が痙攣したようにどくりと暴れ、胸の奥から小石がこすれ合うような音がした。

「なんでお前がそこにいるんだよ」

僕はまっ白なむなしさに包まれて呟いた。青い砂が胸の奥から吹き上がり、僕の口から吹き出た瞬間に赤や黄色に変化したと思ったら砂は空気中に溶けていった。

僕は食堂のむなしさに飲みこまれる前にその場を離れ、人気のない廊下へ入った。

昼休みの実習系の教室のある廊下は静かだった。教室のある棟とは違い、淡い黄色の廊下や折りたたみ式の壁は、うっすらと日焼けしている。日焼けした部分と今太陽を浴びている部分と太陽が当たらない部分とで三段階の色が壁に縞模様を描くように焼き付いていた。

奥に進むにつれ、外の空気が入らなくなり、空気中の塵や埃も舞うことを止め、空中で停止しているような乾いた空気が目に入った。息苦しさを感じて、どこだろうと教室のプレートを見るとそこは美術室の前だった。

「あれか、グラデーションの作業やったところか」
「あれはつまんなかったな、もう結構前だな。実習の後に落合たちにやられたっけ。あの壁で蹴られた気がする」

と言い、反対側の奥の廊下へ行こうと振り返った時、僕の目の前に美術室の壁が現れた。

「え………」

僕はその場に立ち止まったまま動かなくなった。壁に刻まれた細い傷は、光に照らされたら、僕の体の隙間に入り込み、ギラギラとした銀色を放ってくると思った。立ち止まったままでも銀色の線は、壁中の至るところに飛び散っており、入口の光に照らされて見える部分から、暗くて見えない部分まで、ゆらゆらと進んで端のほうに消えて見えなくなっていた。線を辿って行くと、必ず光の当たらない真っ暗な壁の向こうへ消えていた。


傷跡を見つめていると、僕はポケットに入れていた片方の手に何か、肉感的と言ってもいいほどの感触を感じた。それは分厚くごつごつとしていて暖かく、いつの間にか僕の手は、その肉感的な感触によって握りしめられており、そこから伝わってくる体温や血液の振動が僕に伝わった。舌を噛んだようながりりと響く低音。鼓動の度に血が広がっていく感覚。それらは決して不快なものではなかった。血液の振動はやがて、シャーペンで字を書くリズムに変わる。そこから浮かび上がる、ギラギラとした髪を持つシャーペンの持ち主。額の汗を拭いながら字を書き続けている。時々、左右に膝を広げたり閉じたりを繰り返して、それが癖になっているようだ。小さなうなり声を上げて吐く息は、にんにくのようなにおいがする。掻き毟られて舞い上がる埃や細かいフケ。それらも不快ではない。目の下の薄い皮膚にたまり、刻まれていく。黒く深いくまが、刻まれる。

「落合くん」

僕は傷を見つめたまま、

「俺はお前を知ってるよ」と言い、壁の前を離れた。

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冠
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