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【掌編小説】ニート

朝起きたらトイレに行ってお茶を飲み、昼過ぎまで寝た。
結局5度寝くらいして、15時に目覚めると下校してきた小学生たちが公園で遊ぶ声が聞こえて申し訳ない気持ちになり、19時くらいまで寝た。
急に仕事が見つかる夢。急に彼女ができる夢。宝くじで5億当たる夢。落下傘が開かずに地面に衝突して死ぬ夢。急に鵜飼としての才能が開花する夢。核戦争でフランスが消滅する夢などを見て疲れた。
ベッドからは夏のプールサイドに純米酢をぶちまけたような気味の悪い匂いが漂っている。

夕方になると流石にお腹が空いて、コンビニに行こうと思ったが仕事帰りの会社員と重なると申し訳なく、結局21時まで耐え忍んでコンビニ行った。
セブンイレブンの明るい駐車場の光がこの日初めて浴びた外の光だった。ローソンはロゴが青いので気分が少し落ち込む。ファミリーマートはファミリーから親を思い出す。セブンイレブンが最も素晴らしく、ロゴもカラフルで前向きな気持ちになれる。
憧れのお酒コーナー。もう一度あの透明なガラスの扉をスマートに空けて好きなお酒を買いたい。僕は今年で28歳。お酒は買えるが、アルコールはセルフレジで会計ができないので、セルフレジ派の私には買えない。

こんな日々より、働いていた時のほうが楽だ。あのゴミみたいな職場。実際、上司の机の下はカーペットが見えないほどゴミだらけだったっけ。それでも働いてさえいれば気兼ねなく外に出られるし、コンビニで気を遣わないし、電車に乗ったら隣に人が座って来て、スタバで人間として扱われ、コーヒーを受け取ることだってできる。それが今はない。どこに行っても申し訳なく、家にいても申し訳ない。

僕の友達は遊歩道に咲いている紫陽花とダンゴムシ。彼らはやさしい。僕をなんとも思っていない彼ら。ダンゴムシは全速力で道端に突っ立っている僕のスニーカーめがけて突っ込んでくる。ぶつかると、少し考えて180度反転してまた全速力でどこかへ向かう。なんて愛おしいのだろう。
紫陽花は少しずつ花びらの色が暗く褪せていく様が美しい。少女が大人になり老婆になっていく過程を見ているような感覚。そして、僕に見られることをなんとも思っていない堂々とした朽ち方。
僕は紫陽花のどこに触れる訳でもなく、手を伸そうとしていることに気づいた時、この生活を続けている限り何も得られないのだと感じる。
君に触れたい、社会に属してお金を稼ぎたい、誰かと笑い合いたい、人に怯えず会話がしたい。
やりたいことは平凡なことでしかないのに、この生活ではそれが不可能なのだ。言い換えるともうやめたい。ということなのだが今こうして素直になっている自分を誰かに見られているとかもしれないと思うと恥ずかしく、紫陽花に伸ばそうとした手を閉じてしまう。

僕はなぜ生きているのだろう。生きている必然性はどこにあるのだろう。ただ生きているだけでは生きていることに必然性があるとはいえない。であれば、何もしていない自分は生きている必然性がない。つまり生きている必要がない。というおなじみの理論を展開するが、これ以上先を考えるのが怖い。

遊歩道を歩きながら、道の脇にダンゴムシが干からびて鰆の皮みたいな鈍い銀色の光を放ちながら死んでいるのが目についた。そしてその死んだダンゴムシの傍を元気なダンゴムシが横切っていった。都会の交差点のような光景だった。

僕はこの時、自分が死んだところで世界は特に変わらないのだろうと思った。生きている必然性がない。の先には、では死ねばよい。という答えがあると思っていたが、仮に必然性がないなら死ねばよいとして、死んだあと僕にとって楽しいイベントは当然起こることもなく、ただ世界は運営され続け、僕が死んだ部屋は誰かが鼻をつまみながら高い時給で掃除し、安い家賃で貸し出されるか更地になっていくだけなのだ。

死んでも楽しいイベントは起こらないのなら、紫陽花を美しいと思える自分であり続けることが、死ぬことよりも今やりたいことのような気がする。


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冠
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