会話の飲み会化
一つの事柄について考える力も反発する力も、文章を読む力も人の心を想像する力もなくなってきている。と感じることが増えている。
弱体化しているのは若者だけじゃない。お年寄りも、主婦も、サラリーマンも、聞こえてくる会話がどれも細切れになってきている。笑える話はとくに短く、愚痴は文節が多いうえに一文がとめどなく長く、仕事の話はいつも定型的で感情があったとしても定型的なもの以外は求められない。
これを飲み会スキルというのか? 誰もが瞬時に理解できるような言葉のチョイスで情緒を表現する。というやり方。ちなみに僕はそういうスキルが皆無なので、込み入った話をするほど、僕自身が考え込んで沈黙が長くなるし、それを聞いた側にも考える時間が必要になるというメンドクサイ会話が好きな人間である。それだけに、世の中の人々が飲み会化していくのは肌で感じている。
飲み会化を推し進めると、
A=B まで最短で至ることを最優先とする思考しかできなくなってしまう。
面白いものを見たい=youtube
分からない=ネットで調べる
不満がある=ツイートする
行動しているようで、反応しているだけだ。
少し前までは、
Aが分からない=Aが分からない状態でいいのか?=Bが分かっていればAはあとでいいのではないか? Aは明日でも遅くない=Aは”今は”分からなくてもいい。
という3~4段階の展開が主流だったと思う。
令和になって、考えることがストレスであり「悪」のようなポジションになり、考える手間の無いコンテンツが台頭してきている限り、「考える」という行為の魅力を上手く伝えられないコンテンツは競争に負けていくだろう。
この傾向の最も悲しい犠牲者は若者かもしれない。
生まれた時からネットに触れ続け、自分の頭で考える力が備わっていないうえにSNSを日々使用し、想像力も、想像する楽しさも、考える力もなく、ただただ全てが気怠く、うつむきがちで、そういった同じ境遇の人間もネット上で簡単に出会えるので、自分だけが極端に孤立する。という経験もできない。ぬるま湯につかったまま若さがドロドロに溶けていっているように感じる。
ひとつはSNSのせいかもしれない。世界を既視感で埋め尽くした。物理的にも、精神的にも「未知」の楽しさをなくしてしまった。あらゆる境遇の他人がすぐそこにいるような感覚は、自分と他人の境界を麻痺させる。
だが、彼らには長所もある。とても頭が鋭敏にできていると思う。数多の既視感にさらされてきた彼らは自分が生きる意味を、無意識に問われていると思う。既視感の連続は、生の自覚を奪われたと同時に「生の意味を問われる連続」でもあると思う。
だからこそ、(既視感という波に揉まれたからこそ)彼らは冷めているのかもしれない。「そんなに頑張る意味ってあります?」という生意気な言葉はそうやって磨かれてきた考え方だと思う。
元気がないのも当然かもしれない。原因がネットやSNSのせいなのか、僕には断言できないけれど、こういった傾向がある限界点まで推し進められた時に、波のようにまた逆のムーブメントが生まれるはずだと信じているので、その時を待っている。いや、自分で波を作りたいと思う。
飲み会化などの世間的なマインドの変化が、大きな災害やテロが起きたことで、ようやく認識が変わるのは嫌だなといつも思う。誰も亡くなったり悲しい思いをしたりせずに、自然にみんなが少しずつ気づいていけば世の中はもっとソフトに楽しくなると思っている。が、なかなかそうはいかない。