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新作小説「PUPPETS」①
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執筆中ですが公開することにしました。
不定期ではありますが、まとまった分量が書ければ随時公開していきます。
1パート5,000文字程度でパート5くらいまでを想定しています。
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今日も聖橋の欄干から見える光景が胸に刻まれていく。JR中央線、JR総武線、東京メトロ丸の内線、三本の通勤電車が神田川に沿いながら交差する。電車たちはチェロの弓を引くようにゆっくりと進んでいく。
――美しい
聖橋の中央で石の欄干にもたれていると、車輪の音で幼少期の記憶が呼び起こされ、背後で行き交う靴の音は聞こえなくなる。磁石で連結する電車のおもちゃで遊んでいた自分。肌や髪から甘い匂いがしていた自分。
「ピーッ」
ガードマンの吹いた笛の音にはっとした。ちょうど聖橋の袂で行われている工事現場からトラックが出ていくところだった。懐かしんでいる自分を指摘された気がして、本郷の職場へ向かった。
数カ月前、妻の浩子が台所で若鶏の胸肉を捌いていた時「こうやって、まず観音開きにするの」と教えてくれた。牛刀の刃先がするりと入ると、分厚いピンク色の肉がべろんと開いた。何かを美しいと思う時、僕は自分の胸がこの肉のように開いて、抱きしめたいと思っているのかもしれない。頭の中で電車が肉に包まれていく。これは新婚にありがちな錯覚なのだろうか。
「ただいま」
「おかえり」
マンションの玄関の照明に照らされた浩子。靴を脱ぐ前に浩子が僕の首元に倒れるようにぶつかり、桃のような甘い匂いが漂ってくる。
「あったかいんだね」
「なにそれ」と言うと浩子は台所へ行った。
僕が鞄を部屋に置いたり靴下を脱いだりする間、沈黙になり、少しすると浩子が今日あったことを朝から順に話し始めた。人見知りと話したい気持ちがせめぎ合う純粋さ。愛おしさにくらくらする。
「あと、炒めるだけ~」浩子は話の途中だったが思い出したように言い、エプロンを腰に巻き、僕をダイニングチェアに座らせようと肩に両手を置いた。右手は冷たく、左手は暖かった。
「ひろちゃんの手、左右で温度違う」
「そう?」
「右だけ冷たいけど……また素手で氷つかんだ?」
「洗い物してただけだよ、食べる?」
「うん」と僕が言うと浩子はフライパンを火にかけ、準備してあった肉や野菜を炒め始めた。途中からオイスターソースの香りが漂い、出来上がったのは青椒肉絲だった。
「ピーマンのシャキシャキ具合がちょうどいい。おいし過ぎて、おい死んじゃうかも」
「そんなに?」と言ったが、浩子も「ほんとだ」と自分で驚いていた。浩子の細長い指に女性用の箸は短く見えるが、男性用だと大きすぎる。
「今日ね、最近存在に気づいたパン屋さんがあって、そこの食パン買ってきたから明日はそれ食べよ。タグが可愛くて。イギリスパンの六枚切りで四百八十円で……」
僕にはそれが安いのか高いのか分からず聞き流していた。
「それと、今日、変なニュースやってた。聡くんは見た?」
僕は「見てない」と言った。
「釧路湿原、人語を話す動物か。だって」浩子はニュースの見出しを読み上げた。僕はテーブルの中央に置かれた花瓶を見ていた。
僕は「なにそれ……フェイクじゃないの?」と笑うように言いつつ、何故か今日の聖橋の光景を思い出そうとしていた。
「JR北海道釧網本線、細岡駅で駅職員が動物を発見か。保護直前に駅員の田中氏はスマートフォンで動物の様子を撮影したと発言するもメディアに提供していない。保護された動物は警察に引き渡された後、翌日護送車で釧路市内の動物園に移送された可能性がある。だって……」
その日の夜、寝室の明かりを消す前に浩子の体を毛布で温め、照明は真っ暗にせず豆球を付けた。
「大丈夫だよ、ひろちゃん。全然確定していない話だよ。少し待てばちゃんとした事が分かってくる」
「……でも、怖くて」
「うん、僕もぞわぞわする。けど大丈夫だよ。毛糸の靴下履く?」
「うん」
浩子の肩を抱きながら、僕の頭の中では浩子が何気なく言った「最近存在に気づいた」という言葉が引っかかっていた。僕も普段からあの光景の美しさに気づいていたのだろうか。
肩と肩の隙間から浩子が冷えないように、僕はベッドの端に寄って眠った。
翌朝、浩子よりも先に目が覚めた。トイレでスマホを開き、明け方に投稿された記事を読んだ。
――動物は二足歩行。うさぎに近い形状と色。三歳児程度の言語能力か。動物園側はメディアの取材を拒否、有識者のみを招くと発表。政府からの正式な発表はなし――
「きっと、御茶ノ水も本郷も大慌てだろうな……それより浩子」
ベッドに戻ると浩子はまだ眠っていた。閉じられた瞼を見つめていると視線に気づいたのか浩子はゆっくりと目をあけた。
「見てたの?」第一声からはっきりとした声だった。
「うん。おはよう」
「今日、何か……」と言ってから「あ、そうか」と言い、ニュースを思い出したようだった。
「僕の顔がはっきり見えるの?」
「見えるよ、当り前じゃん」
「起きたばっかりの視界ってぼやけてない?」
「そんなことないよ、起きてすぐはっきり見えるよ」
「本当? 俺、五分くらいずっとぼやけてる」
「聡くんだけじゃない?」
「浩子って寝起きから頭はっきりしてるよね」
「それも普通じゃないの?」
「そんなことないと思うよ」とりあえず普通に会話ができて安心した。ニュースの話をするべきか迷ったし、変に話さないでいると息苦しくなる気がしたが、言うべきか決めきれないでいたが浩子が自分から話した。
「私はね、昨日のは良くないニュースになってくると思う。なんでだろう、誰も亡くなったりはしないだろうけど」
「もう、どんなことが起きるのか分かるの?」
「分からないよ。なんとなくしか。今日は夕方に雨が降りそう、みたいな程度でさ……分かんないよ」
「そうだよね」
最近はリビングのテレビを殆どつけなくなっていて、ニュースもお互いのスマホから別々に見ていたが、今日はテレビをつけた。
殆どのチャンネルが同じ内容を報じていた。北海道の釧路湿原で発見された人語を話す動物は本当にいるらしい。ということ、釧路市動物園の前にマスコミが押し寄せていているが、新しい情報はどこからも入ってこないことから、動物をどこかに隠したという憶測が流れていた。
「本当に隠されたのかな?」
「政府がもう連れて行ったのかも、だとしたらあの辺にいるかもしれない」と言い、浩子はリビングのカーテンを開けた。窓の向こうには浅草寺の塔や丸の内のビル群、警視庁や防衛省のアンテナ、霧がかった皇居の森が見える。
「不安に包まれてはいけないね」
「うん」
――今、動物はどこにいるんですか? と質問する記者に動物園から出てきた女性の職員が「あの子が世間に出る義務はないでしょう。何も悪いことしてないじゃないの」と答えていた。その職員が何を知っているかは不明だが、この一連の記者とのやりとりがSNSで拡散されていた。
「あの子がって言ってるね……」
「第一発見者は本当に駅員なんだろうか。田中も偽名っぽい」
僕は声に出していた。他の情報が知りたくてチャンネルを回そうとすると浩子がリモコンを持った僕の手首を掴んだ。
「やめて」
「知らないと余計に怖くなる」
「そういうことじゃない」
浩子はこちらを見つめていたが僕は目を合わせず、相変わらず鎖骨も細いなと思った。僕は、じゃあ、仕事に行く途中で見ればいいと思い、黙ってテレビを消した。
玄関を出る時、浩子は僕の背中に言った。
「聡くん……夢中にならないで」
僕は早く家を出てニュースの続きを調べたかった。背中でドアが閉まる音を聞くと、浩子の声も匂いもなくなり、朝の空気に包まれた。すずめが普段通りにマンションの下のケヤキに停まっていて、囀りが時々横断歩道の自動音声と重なっている。
僕は自分のタイミングで空を見たりニュースを見たりしたい。エレベーターまでの廊下を歩き、中で一人になると「好きにしたい」と呟いた。浩子の頭の回転が優れているのは尊敬しているし、実際に正しい場合もよくあるが、僕は自分の心を監視されている感じがする。それが僕を息苦しくさせるなら、優れているとはいえないのかもしれない。
マンションを出て地下鉄までの通りを歩いている間、通勤するスーツ姿の男たちもきっと僕と似たようなことを考えているのだろうと想像する。あのニュースの続きが知りたくて、胸の高鳴りを隠した代わりに革靴の足音が乱れている。あの男たちにもおそらく妻や恋人がいて、あのニュースの不安を自分の言葉で和らげることができていないのなら、男が誰かを幸せにできる世界は終わる。
消防車が聖橋の上を通った時、僕は神田川のトンネルから赤い車体の丸の内線の車両が出てきて欲しいと願った。赤い消防車と赤い電車の共演を期待して、聖橋の途中で立ち止まり、トンネルから出てくるのを待った。しかし、丸の内線を待っているうちに消防車はニコライ堂のほうへ行ってしまった。それならニコライ堂と消防車を同時に見たいと思い、体の向きを変えると、目の前に鼻で笑う寸前のような表情の女の子が立っていた。上目遣いで睨まれている気もしたが「どうかしました?」と聞くと「はは。そこ、いいですか?」と言った。なんとも言えない態度に押されて二、三歩後ずさると、その子は僕がいた欄干から丸の内線が出てくるトンネルの辺りをスマホで写真を撮り始めた。
「なんでそこで写真撮ってるの?」僕が聞くと「聖地」と言った。何のだよ、と思って黙っていると「知らないんですか?」と言った。
「アニメとかはあんまり見ないな」
「そうなんだ。あ、仕事行かなくていいの? みんな歩いてるけど」
「時間は大丈夫だよ。あのトンネルのさ、何がいいの?」と僕が言うと「いやあなただって同じ景色見てたんでしょ?」と即答した。
「そうだよ」
「それとおんなじだよ」
「じゃあ、あのニュース見た?」
「うさぎのやつ? めっちゃかわちいよね」
「映像もあるの?」
「とっくに出てるよ、合成かもしれないけど。てかどっちでもよくない? ほら電車来たよ」
その子は欄干に片肘を乗せたまま話し続けた。
「あんな動物がガチでいる訳ないじゃん」
「だといいんだけど、でもリアルな感じがしてて。君がここにいるのもニュースのせいだと思う。初めて来たでしょ?」
「そりゃ、あんなのが出たらみんな変わるでしょ。私はそわそわした人が嫌いだから暇つぶしに来ただけ」
「じゃあ、また会いそうだね」
「やなんだけど」
「きっと、空港が混むから、都内の公園が空いてくる。話せて良かった」
僕は聖橋を渡って本郷の会社に行き、考えを整理しながら仕事をした。職場では誰もあのニュースについて話していなかった。仕事でトラブルがあっても、すぐに収束し、全員が的確に動いていた。流石に給湯室や喫煙所に行けば話は出るかと思ったが、仕事の話がいつもより多いほどだった。却って不自然な気もしたが十時半頃、エレベーターを待っている時に窓から下の歩道を見ると、いつもと違う光景があった。散歩に出てきた文京区の幼稚園児たちがペアの園児と手を繋いではしゃいでいる子と、手押しカートの中で座り込んでいる子に分かれていた。彼らは、本当にかわいそうだと思った。ニュースの動物にわくわくしている子と、親がニュースに溺れていくことに絶望している子に分裂している、僕はそう思った。
「ごめんね」僕は大人を代表するつもりで呟いた。カートの隅で膝を抱えた園児は今朝の浩子を思い出させた。すぐにスマホで浩子に「今日はすぐ帰るね」とラインを送り、少ししてから「今日は、カルボナーラが食べたいな」と送った。
仕事が終わっても考えはまとまらず、総武線の扉のガラスには打開策を持たない自分の顔が映っていた。
家のドアを開けると浩子が立っていた。エプロンの腰の結び目がこちら側から見えていて、一日で痩せた気がした。ただいまの後に「食欲ある?」と聞くと「聡くんが食べたいって言ってくれたから出てきた」と言った。
「よかった。最後にソースをあのパンにつけて食べよう」と言いもう一度浩子を抱きしめた。
浩子は普通に振る舞おうとしていた。浩子はおそらく僕がニュースに夢中になることを恐れ、僕は浩子が夢中にならないで欲しいという感情に支配されることを恐れた。スマホは鞄に入れたままでテレビもつけなかったが、普段はスマホで音楽を流していたので妙な静けさが漂っていた。ベランダのカーテンを開けると、浅草寺の塔が赤く照らされていてそれを見ながらカルボナーラを食べると気持ちが少し和らいだ。遠くのマンションでもベランダに出て涼んだりしている人が見え、夜景を見る浩子はただ痩せただけでなく、何かが違い、それはどことは説明できなかった。浩子が昨日買ってきたパンにカルボナーラの残ったソースをつけ、最後にワインを少し飲んでお風呂に入るとまだ二十二時半だったが灯りを消してベッドに入った。
浩子が背中を向けたままじっとしていたので「今日、カルボナーラで卵白余った?」と話しかけた。
「うん、三つ分ある」
「じゃあ明日、僕がエビチリ作ろうかな」
「……ありがとう。聡くん、あのさ……」
「なに?」
「あれを、探してきて」
「なに?」
「あの、うさぎ」
僕は沸き上がった唾液を飲み込み、浩子の小さな背中から津波のようなプレッシャーを感じた。
「どこに?」
「分からないけど、見つかったのは北海道でしょ?」
「そうだけど……日帰りじゃあ、いやダメだよ。動物園の職員の口ぶりからもう北海道にはいないと思う」
「でも、聡君は気になるんでしょ?」
また昨日と同じ、浩子は浩子だと思った。結局浩子に言われてからでしか反応できない自分がいた。
「そりゃ、そうだけど、みんな同じことを考えていると思う。羽田とか新千歳空港がうさぎ目当てでごった返して、青函トンネルも混んで、上野駅も混んで、結局フェリーで行くのが一番早いってなるよ」
「そもそも、もう東京にいるかもしれないじゃん、皇居とか一番安全そうだし」
「それもまだ、分からないでしょ」
「そうだけど……」と僕が言うと浩子も黙り、何事もなかったように静かになった。抱きしめて欲しそうな背中には見えなかった。
沈黙のあと「僕は夢中になってない」と浩子に考えを先読みされる苛立ちを込めて言った。返事はなく、その後言葉を交わすこともなかった。途中妙に寝苦しいと思い、夜中に目覚めると浩子が背を向けたままスマホでニュースを見ていた。壁紙が青白く光っていて、僕はとても悲しい気持ちになった。
つづぐ
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