泉鏡花という人物像を勝手に妄想
今回のLINEスタンプに泉鏡花(いずみきょうか)による「きょうかんです!」を入れました。前回の大田南畝が狂歌(きょうか)の作家だったので、なんとなく、次は「共感」というLINEスタンプをつくりたいな、そんな軽い気持ちで泉鏡花に辿り着きました。
ただ、私、この方の作品を読んだことがなく、全くどんな人かわからない。
さらに、いろいろ調べてみると、現代でもたくさんアニメや漫画化されているけど、一度も触れたことがないし、なにより、私は幻想的な世界観がちょっと苦手ということや、「日本語の達し得る最高の表現」とも称されるほど美しい文体と言われているけど、古文調で全然頭に入らない・・・なので、私はこの方に親しみを感じられるのか、ちょっと半信半疑で人物像の妄想をスタートしてみました!
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泉鏡花という人物。生まれは1873年、石川県金沢で、象眼細工・彫金の職人のお父様と、加賀藩お抱えの葛野流大鼓方中田万三郎の娘であるお母様の間に生まれた。お母様は鏡花が9歳の時に逝去。父と鏡花は石川郡松任にある行善寺を参詣し、それ以来終生、摩耶夫人(お釈迦さまの生母)を信仰した。
その後、ミッションスクールで英語を学び、私塾で英語を講じていたが、友人の下宿先で尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』に出会う。これに強い衝撃を受けて文学を志し、1891年に紅葉の門下に入るために上京。快く入門を許されて、尾崎家で書生生活が始まった。
尾崎家では原稿整理や雑用などを行いながら、1893年19歳の時、紅葉の斡旋により、新聞に「冠弥左衛門」を掲載。打ち切りの危機がありながらも、紅葉のアドバイスを受けて完結。
父の逝去で経済的支援がなくなり、文筆一本で食べていこうと決意し、脚気を患いながらも次々と作品を発表していった。
1902年に胃腸病のため逗子で療養中に、台所を手伝いに来ていた芸妓のすずと出会い、その後東京で同棲をしたが、それを紅葉に知られ、交際を反対される。その直後に紅葉が逝去。硯友社の同人とともに葬儀を取り仕切った。
その後、祖母の逝去、胃腸病の悪化などが続くも、執筆意欲は止まらず、多くの作品を発表した。
ドイツ文学者と共訳で、世紀末的な要素のあるハウプトマン「沈鐘」を出版したことをきっかけに、大正時代に入ると戯曲にも志を持ち、「夜叉ヶ池」などを発表し、脚色作品も多く手がけた。
この頃から、斬新かつ可憐な意匠で評判となった「日本橋」をはじめ、泉鏡花作品の挿絵を多く手がけた小村雪岱(こむらせったい)とのコラボが始まる。「雪岱」の画号は鏡花が名付けており、雪岱も「私は鏡花門人ですよ、絵筆で鏡花直伝の文章を書くんですよ」と語るほどそのつながりは深かった。
晩年になると、鏡花を師と仰ぐ谷崎潤一郎や芥川龍之介などが編集委員となって『鏡花全集』が刊行。出会いから27年目、鏡花52歳にしてすずと入籍。1927年から九九九会(くうくうくうかい)が始まるなど、多くの友人や仲間に囲まれながら多くの作品を執筆し、旅行に行って紀行文を書くなどして過ごす日々であった。
1937年に帝国芸術院会員に任ぜられ、その後体調を崩し、1939年に逝去した。
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どうやら鏡花に関する研究はとても多いみたいなので、私みたいな素人が語るなんておこがましいですし、いろいろ念入りに調べたつもりですが、もしかしたら全くの勘違いとかあるかもしれません。
でも、 やっぱり、この方の唯一無二の天才性に惹かれて多くの文人たちが集まっていたのではないかなと思います!!!最初に才能に気づいたのは尾崎紅葉だったのかもしれません。
19歳でデビューしてから65歳で亡くなるまでに、体調不良の時期も多々ありながらも約300編もの作品を書きづつけ、母の死をきっかけに終生摩耶夫人を信仰したこと、師匠の紅葉へのリスペクト、出会いから27年後のすずとの結婚など、自分の世界観と信じる道を確立されていて、そんな揺るがない姿勢も、多くの人を魅了したのかなと思いました。
明治期の文豪の方々って、どうも派閥作って敵対しあっているイメージがあるのですが、この方はきっと雲の上に飛び抜けた存在としてリスペクトされていたのだろうな・・・。
きっと溢れちゃうんだろうな。言葉がどんどん湧いてきて、原稿に情景がひろがってきて、もう、書くために生まれてきた、そんな人なんだろうな・・・(憧れ)って、妄想しまくってました。
今回を機に、天才泉鏡花の人生にすこしだけ触れさせてもらって、全くの異世界の人ではなく、いつか彼の描いた世界を覗けたらいいなという思いが芽生えたのは、なんか嬉しい体験でした。
私も、鏡花が紅葉の作品を読んで衝撃が走ったくらいの運命を感じてみたい・・・もう遅いですかね(泣)