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尾崎紅葉という人物像を勝手に妄想

さて、次は尾崎紅葉のスタンプです。泉鏡花の恩師ということで、名前も特徴的だし、何か面白いスタンプにできそうだな〜って考えて、紅葉だから「こう(し)よう!」とかがいいなぁなんてイメージしたのですが、LINEのやりとりで「こうしよう!」って打ったことある?!って思い却下。
結局あれこれ考えて、苗字をもじって、「おさ(``)きにどうぞ」に落ち着きました。

なお、私は、学生時代に熱海旅行しにいった時に、貫一お宮の銅像を見て、初めて金色夜叉という作品があることを知りましたが、実際にちゃんと作品を読んだ記憶はございません。お名前は特徴的なので知ってましたが、なぜ有名だったのかなんてよく分からず。

そんなど素人な私が尾崎紅葉の人物像を妄想してみます。お顔を拝見する限り、目力の圧が強くて、いつも虚取っている私は仲良くなれるか正直、不安です・・・

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尾崎紅葉という人物。1868年に東京芝大門に生まれ、4歳で母と死別後は、母が他の祖父母に育てられる。高校に進学したが中退し、私塾に通って漢学、漢詩文、英語などを学び、1883年に大学予備門に入学。入学後は文学への関心がさらに深まり、1885年に同志と硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊。

その後、1889年には泉鏡花に衝撃を与えたという『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』を発表。当時は、書きことばと話しことばの乖離を正していこうという「言文一致運動」が活発で、多様な作家や新聞等でもいろいろな文体が模索されていた。その中で、紅葉は、会話を口語体、地の文を文語体とする雅俗折衷の文体を用い、それが好評を博し、一躍流行作家となった。

その間に大学予備門の学制改革により、旧制高等学校に編入し、その後、1888年に帝国大学法学部政治科に入学、翌年国文科に転科するも、その翌年に退学。大学在学中に読売新聞に入社し、「伽羅枕」や「三人妻」等を掲載して人気を得て、明治期の文壇の重鎮となっていった。
義侠心に富み、親分はだでもあった紅葉は、硯友社の総帥として活動し、そんな紅葉の元には泉鏡花や徳田秋声、田山花袋などをはじめ、多くの門下生が集まり、門弟たちの指導を熱心に行った。

1897年からは読売新聞で「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の掲載が始まる。金と恋の物語は、日清戦争後の社会背景とともに時流に合ったテーマで大人気作となり、長期連載となっていった。
しかし、紅葉は病弱だったこともあり、1899年から健康を害し、新聞社を退社するも、1903年に『金色夜叉』の続編を連載したが、これを途中で中断し、積極的に治療を行ったが35歳で自邸にて逝去した。

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明治時代の幕開けのタイミングで生誕した紅葉ですが、こんな若くして亡くなられていたとは知りませんでした。紅葉は、高校や大学に入学してもすぐに中退しています。それでも、同学年に幸田露伴や夏目漱石などがいて、そういう仲間たちとのつながり、交流、競争などがあって、時代と共に新しい文学の波を作っていった人なんだろうなと思いました。
まだまだ紅葉を知らないだけで、実態とは全然違うかもしれませんが、ズバリ、紅葉は、天才肌・芸術肌というよりも、時流を読みときながら、多くの門下生と共に愛する文学の裾野を広げることに貢献したリーダー的存在!
だってあの目力ですよ?!野心のあるバリバリの経営者!だったに違いないと、勝手に確信しています。


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