#056 努力の過程が”推せる”要因に
陰の努力が美とされる時代はもう終わったのか さらりと生きることが美とされ 羨ましがられるというのは もう時代遅れなのだろうか
自分にないものに憧れを抱くよりも 共感できる部分がある人の方が推せる それは人の生き方も考え方も多様化した社会で必然的なことなのかもしれない
昔はテレビの中の人たちと一般の人々の間には明らな境界線があったと思う 世の中に何かを発信する人は”普通”ではなかった でも今はテレビの中の人の生活感ある部分を垣間見ることができたり 彼らとやりとりできる機会もあったりする そして壁の向こう側にいるはずの我々にも発信するチャンスが”普通”にある
下積みと言われる期間も世間に露出していることが多く たくさんの人が新たな世界へ踏み出していく姿やそこに向かっていく成長過程を見ることが出来る それにより苦労した時期を知る人間からすれば 推しの成長姿は自分の成功とも言える これは自分自身の生活においても推しにも苦労した時期があった だから自分の苦しい時期は推しの頑張る姿によって支えられていると感じやすい
もちろん陰の努力を美とする意識は消えたわけではない 見せている部分というのはその人のほんの一部にしかすぎない 当たり前のことだが発信する情報は選別することができる それでも努力や成長過程の見える化が一般的になった今 完璧のように見える人でも そこに至るまでに並々ならぬ苦労を重ねたであろうということは想像しやすくなった
自分にとっての推しを持つ人は多い それはアイドルだったり お笑い芸人だったり キャラクターだったり様々だ 有名人でなくても応援したいと思える”推し”のような人が身近にもいたりする この人が頑張っている姿に勇気をもらえると感じたり 挑戦している背中を見守りたくなるような存在 努力している姿を近くで見ていればなおさら応援したくなるものだ
SNS社会とここ数年の防疫社会によって人と人との距離感というのは大きく変化した リアルでの繋がりが年々薄れていき 最初こそ違和感を抱いていたにも関わらず もうすっかり慣れきってしまった距離感 そんな中でも私たちはどこかで”人間味”を求めている 完璧でないそれに愛しさを覚えている それは完璧でない自分を肯定してくれるものでもある わたしたちは”推し”を通して自分を前進させたりしているのかもしれない だとしたら”推し”を前進させるのはわたしたちでもある 何らかの形で本人に推していることを伝えるのは大切なことだ
なんて言いながらも自分の”推し”にそれを伝えるのはいつかいつかと先延ばしにしているのはここだけの話にさせてほしい
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