術(すべ)のないわたしの生き方
文章を書きたいと思うとき だいたいはしっとりとした気分である
寂しさ 悲しみ 後悔や懐かしさなどで落ち込んだり考え事をしている時が多い
もしわたしが作曲家ならバラードばかり生み出しただろう 画家なら静かで曖昧な絵ばかりを描いたと思うし 陶芸家ならいびつで頼りないものばかり作ったとも思う
残念ながら芸術的な術(わざ)は何一つ持たない
昔はピアノや書道など興味のあったことを習わせてくれなかった親のせいにしたものだが 改めて思えば自分が何かしらの努力をしなかったことも事実だ
子供には何か興味のある楽器や芸術に関するものをさせてあげたいなと思う 自分を体現できる術(わざ)を持って欲しい
芸術は人を傷つけるものではない このストレス社会を生きる上で 形にこだわらない時代だからこそ 形作れる人間でいて欲しいと思うのだ
術(わざ)を持たないわたしはいつも埋もれていて それは常に劣等感を抱えて生きるということだった
学生の頃合唱コンクールでピアノを担当する子や美術コンクールに入選するなど何か自分を代名する術を持つ人が羨ましかった(今でも時々そういう感情はある)
悶々とした感情を何かで発散したり形にする術(すべ)もなく生きることは簡単ではなかった
常々 もしもピアノが弾けたなら もしも絵が描けたなら もしも心のうちを形にするすべがあったならもっと違っていたかもしれない という思いがあった
ただの一であることに恐怖を感じてしまう
みんなと同じ、人と同じ=自分は人より劣っている と感じてしまっていたから
発散できないでいるモヤモヤは何度も何度もぶり返す
この感情を形にすることで自分の中から切り離せたらいいのに
そして何の術(すべ)もないわたしが行き着くのは いつも書くことだった
詩を書いたり日記をつけたり 中学生の頃から時々そんなことをしていたが 今はまさにこのnoteだ
「書き出す」ことで自分からその感情や問題を切り離してきた
言葉で表すことの出来ない思いを形にすることこそ芸術だが その思いをあえて知り得る限りの言葉で形作るのもまた術(すべ)として有りなのでは?と気づく
言葉は時に人を傷つけることもあるが(過去にわたしの言葉に傷つき離れていった人もいる)それでもわたしはわたしの言葉で生きていく
「いい文章」を書くのではなく うちにあるものを形として残すための術(すべ)である
だから今は恐れずに書くことができる 文章という形で残す
これこそが術(すべ)を持たないわたしの生き方なのである