はじめに
先日、とある心理職の方が法務省のポスターを賞賛されているツイートを見かけた。
いくつかの理由から、“国が”このような言葉を発し、“心理職が”賞賛することには私は賛同できかねないと思った。
その時はこれほど拡散されて話題になると予測していなかったため、雑に論じてしまった。
しかし後に様々な立場の方々まで拡散され、勝手に色々なところで私の想いとは裏腹にまとめを作られてしまったりしたため、私の考えをここに残しておく。
例によって、私はいち当事者としてn=1の経験と立場から述べたいと思う。ちなみに発端のポスターはこちらである。
https://www.moj.go.jp/hogo1/kouseihogoshinkou/hogo03_00103.html
私の立場として思うこと
私は性犯罪被害者である。ただし刑事告訴はしていない。民事で争うことも出来なかった。
それと同時に私は罪を犯そうとしたこともあった。
私は親からの虐待により、姉妹間で徹底的に比較されて育ち、小学生の頃には妹を殺そうとしたこともあった。中学生のときにはレイプされ、妊娠検査薬を万引きしようとしたこともあった。
いずれも直前で思い留まったが、もし犯罪をしていたら今の生活は無かったし、もっと孤独で、もっと人を頼ることなんて無理だったと思う。だから私は、犯罪や非行の背景にある様々な“生きづらさ”は無いに越したことないと考えている。
私が罪を犯す直前までいったとき、社会や周囲の大人は誰も助けの手を差し伸べてくれなかったし(そのために社会を変えていこうというのは同意だけど)、そうした人を(法務省の役目ではないかもしれないけど)支援に繋ぐことがまだ難しい中で、国からあのように言われるのは同意できない部分が大きい。
直前で犯罪を思い留まり、20代前半まで独力でsurviveしてきた私は、自分が犯罪を犯していたかもしれないもう一つの人生について時々考える。紙一重だったと思う。
現状、生きづらくても何とかセラピストを見つけ、治療に繋がり、surviveし続けていると思う。でももしあのとき罪を犯していたら、私の生きづらさはこの比ではなかったと思う。
当事者性から思うこと
前科のある人も含めて色んな人が色んな人の様々な生きづらさに思いを馳せることは、それ自体は良いことだと思う。その部分はこのポスターに同意できる。
なぜなら、富樫公一は著書「当事者としての治療者」で下記のように述べている。
これはあくまで臨床家向けの言葉であるが、様々な“生きづらさ”に思いを馳せるということの意義を、端的に説明してくれていると思う。
そこでやはり自分がもし私があのとき罪を犯したかもしれない人生を考えると、このポスターを見ていたらもっともっと苦しかったはずだと推測する。
したがって私は、生きづらさは抱えるよりも減らした方が良いと思う。
法務省に対して思うこと
社会が変わることで再犯が減るという点は頭では理解できる。社会が変わっていくことは被害者にとっても良い面もあると思う。再被害にも遭いにくくなるかもしれない。
しかしそのために被害者が(もう散々辛い思いをしたのに)協力していかなければならないのか…と理不尽に思ってしまう部分もある。
社会には、私のような犯罪被害者も含まれるし、同じく私のように罪を犯す直前で思い留まった人も含まれる。そもそも加害者にも、それ以前に何らかの被害に遭った人も一定数いるはずである。
加害者と同じような内容の“生きづらさ”のある犯罪被害者や、同じような背景を持ちながら加害を思い留まった人たちは、このポスターをどう思うのだろうか、決して良い気はしないのではないだろうか、と思ってしまった。
もっと言えば、性犯罪被害者は国から被害者と認定されるハードルが高く、認定されなかった人たちは(少なくとも法務省からは)見放されたも同然である。そして自費で何年も治療を受けているのだ。もやもやしないはずはない。
それにも関わらず、加害者(もちろん色んな罪が含まれるが)の再犯を防ぐに社会(そこには被害者もたくさんいる)を明るくしましょう、そのためには地域の皆様(そこには被害者もたくさんいる)の協力が必要です、と言われても、やはり感情的には納得できない被害者の方々はいると思う。もちろん繰り返すが、社会が変わることで再犯が減るという点は十二分に理解できるのだが、それを生きづらさを減らしていく側(国や支援職)から言われるのがおそらく私の最も引っかかった点だろう。
また、とある方から、ここで言う“生きづらさ”は前科に限定していると指摘されたが、もし仮にそうだったとしても、前科という生きづらさが存在すること、それを抱え続けることを、他者が肯定するのは私は違うと思う。
支援職に対して思うこと
人と繋がることの難しさ
加害者も被害者も関係なく、様々な“生きづらさ”があるような人というのは、人と繋がるのが難しい人であることを、心理職は知っているはずではないのか、その上であのような言葉が出てくるのか、と色々と疑問を持ったのが正直な感想だった。
これは治療関係について述べた文章である。しかし私自身の経験としても、上記と同じように支援職や人との関わり全般に於いて、繋がるということが本当に難しいと感じている。だから「困ったら頼っていい 1人で自立、でも孤独じゃない。」ということがどれほど難しいことなのか、私は常にひしひしと感じている。
リカバリーと社会との関係
この点はやや本題とズレるところではあるが、私が今回ツイートしたきっかけとして、ポスターだけに疑問を持っていたわけではないということはきちんと述べておきたい。
SNSでどこまで言及するのかは個人の自由だとは思うが、心理職にはもっと社会や権力の問題に関心を持ってほしいと日頃から個人的には思っている。
安心安全が確立され、生活基盤が整い、落ち着いてからでないと腰を据えて心理療法はできないはず(効果が出ないはず)だし、権力や社会に無頓着な心理職なんて全く中立ではないと私は思う。
例えば今日、私がセラピーで「先日、性犯罪の規定を見直す刑法改正案が可決されて、グルーミング罪も含まれてたの!良かった!」と言ったとしたら、なのにセラピストが「何それ、全然知らなかった」なんて言ったら、その一瞬で私は完全にセラピストを信用できなくなってしまうと思う。
そして、もしそのままEMDRをやったとしたら、何も効果は出ないだろう。
当事者がこれだけ必死に訴えて刑法改正に辿り着き、国会の審議も固唾を呑んで見守る当事者も多くいる中、セラピストは無関係でいられる特権的な立場であり、そもそも私たち当事者なんてどうでもいいんだろうな、と私なら思ってしまう。
これはただの例え話だが、社会に無頓着な心理職のセラピーに効果がどれほどあるのか私は疑問だし、当事者に見限られていてもおかしくないだろうと思う。その間の当事者のお金がもったいが…
社会問題は心理支援と無関係ではないし、寧ろ密接に関わっているから専門外と言うのは変だと私は思う。
これが私の個人的な思想ではないということの傍証として、ハーマンの言葉を引用したい。
最後に
被害者立場からのリカバリーと社会について思うことを述べたい。これは少し前に何人かの当事者の方々と話していたことだ。
私たちがトラウマ処理をして、ある程度リカバリーしたとしても、再び何らかの被害に遭ったり、トラウマを負ったりする中で、個人のリカバリーに限界はあると思う。したがって、社会が良くなってほしいと思うのは、被害者のリカバリーという観点でも同じではないかと思う。
しかしだからこそ、当事者以外が発した“生きづらさを生きていく”という言葉を、個々人の生きづらさを減らしていく側(国や支援職)が肯定するのは違うのではないか、と思う。
他の方も仰っていたが、この“生きづらさを生きていく”と言う言葉が当事者から発せられていたのであれば良かったかもしれない。
実際、私自身もセラピーを続けたところで生きづらさがいつかゼロになるわけではないと思っている。だから自分なりに折り合いをつけていくことが必要だろうと覚悟している。
ただ、それを他者から肯定されるのはやはり違うと思う。”生きづらさ”が生じた原因が外部にあるのに、外部から勝手に肯定されたくない。少なくとも私は、いくつもの被害に遭い、罪を犯そうとしたこともあったが、もっと生きやすく生きていきたいと思っている。そのためにセラピーを続け、小さなリカバリーを積み重ねている最中である。