場面緘黙を想像すること
場面緘黙の苦しさを想像しにくいという人に、分かりやすいよう、ちょっと過激な言い方をします。
学校にいる間中ずっと話すことを禁止されていると思ってみてください。
自分に対して、少しでも話したら「人生が終わる」というレベルの禁止です。
多くの場面緘黙の人は、自分で自分に強く発話を禁止させられてしまいます。私は「少しでも声を聞かれたら(自分を知られたら)死ぬのではないか」「一巻の終わりだ」といつも感じていました。大げさに聞こえるかもしれませんが、場面緘黙は話すことに対する恐怖症のようなものです。高所恐怖症などをイメージしてもらうと、わりと近い感覚かもしれません。私にとって園や学校などの話せない外界に居ることは、ちぎれそうなロープの上を綱渡りしているようなものでした。いつ話しかけられるか分からない。いつ発話を求められるか分からない。常に不安と恐怖が隣り合わせなのです。
ちなみに学校で1年間話せない場合、ざっくり計算でも軽く1200時間=72000分黙すことになります(1日6時間×200日)。
もし、どこかのクラスで実験的に「全員が声を出さないで過ごす一日」をやってみたらどうなるでしょうか。場面緘黙、あるいは話せないことの不自由さ・困り感を、少し分かってもらえるかもしれない。そんな気もします。けど、みんなでやったら楽しくなっちゃうような気もします。いつもとちがう「しゃべれない」非日常がおもしろく感じて。。。そんな体験・体感も、それはそれでよいのかも?しれないと思います(「話すこと」のダイアログ・イン・ザ・ダーク版?)。
「真っ暗闇のエンターテイメント」と称されるダイアログ・イン・ザ・ダーク。一度体験しました。「見える人/見えない人(マイノリティ/マジョリティ)」「見えること/見えないこと」が反転する、かつ双方の架け橋になっている、ここでしか味わえない体験でした(また体験レポートも書きたいです)。
場面緘黙のことを知ってもらいたいし、ちょっと複雑な場面緘黙の状態をなるべく理解してもらえたら嬉しい。でも私は、場面緘黙でない人たちに「(あなたたちも私たちと同じ)不自由や困難を味わえ」と言いたい訳ではないのです。できればお互いが、驚きや発見を楽しんだり、新鮮な感覚を覚えたり、そんな風に「なってみなければわからない」を想像し合えたらよいと思うから。。。「場面緘黙を想像すること」について、ダイアログ・イン・ザ・ダークを参照しつつ、これからも考えてみようと思います。