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埼玉言友会・場面緘黙勉強会に参加して

2020年10月24日(日)埼玉言友会
第5回 新・吃音勉強会「場面緘黙について学ぶ」

先日オンラインにて参加させていただいた会。考えさせられることが多すぎてまだ追いつかないですが、やっと感じたことなどまとまってきました。
場面緘黙の人たちや吃音の人たちとも、是非一緒に考えてみたい話題ばかりでしたので、感想ページのリンクをご紹介します▼

以下、所感です。

>「吃音」は「どもって話してもいいんだよ」というメッセージがしっくりきますが、場面緘黙について「話せなくてもいいんだよ」というメッセージには違和感を感じました。吃音は「どもって話す(表現する)」症状ですが、場面緘黙は「話せない(表現できない)」症状。場面緘黙の当事者は、本当は「自分を表現したい」「できることなら話せるようになりたい」と思っている。なのに「話せなくていいんだよ」というメッセージは、症状を応援する声掛けに感じるからだと思います。「話さなくていいから参加してね」「話さなくてもいいから他の方法で伝えてね」、(支援者の立場の者からのメッセージなら)「粘り強く取り組めばきっと話せるようになるよ」というメッセージの方がしっくりくると思いました。

リンク先の角田圭子さんの感想より引用。具体的なメッセージにこめられた背景に納得。私の感想は前回の投稿にも反映されています▼


場面緘黙の外在化しにくさ・性格との分け隔てられなさは、私が当事者研究に惹かれた大きな要因のひとつです。うまく話せないことを、長年自分の性格の問題(障害ではなく性格や人格の問題なので、自分が努力して変わるしかない⇄うまくいかない)とし過ぎていましたので、個人的な悩みと場面緘黙を切り離すことの必要を強く感じました。角田さんは、当事者自身の悩みと場面緘黙は、当事者だけでなく、家族や先生も切り分けにくいのでは?とおっしゃっていました。


>「話せるようになること」を目的とした支援「だけ」ではない支援が「ありうる」

主催してくださった埼玉言友会・山田舜也さんの感想より引用。
場面緘黙においては、「話せるようになることを目的とした支援」もありますが、話せるようになることそのものではなく、「その人らしく生活できること・持っている力を発揮できるようになること」が緘黙支援の目指すところという地盤もあります(例えば高木潤野先生はよく社会モデルやICFの図で説明されます)。もちろん吃音支援にもそういった視点はあるのだと思いますが、「矯正」「どもりをなくす」といった発話面に特化した支援の流れも、とくに過去には大きかったのかもしれません。このあたりは吃音と場面緘黙で、少しちがう点なのかなと感じました。

ちなみに、吃音の場合は、身体機能としての発声・発話へのアプローチがあり、一定の効果も実証されています。同時に、症状が情緒面に影響を受ける複雑さもあります。場面緘黙は不安障害であり、多くの場合、話す能力自体には問題はないとされています。エクスポージャー法(スモールステップで段階的に発話を試みる)、認知行動療法などが治療法として用いられます。場面緘黙も、安心できる環境や状態では話せる、特定の人とは話せる、何かしら自信がつくことで改善する場合があるなど、吃音に似た複雑さ・分かりにくさがあります。

>「吃音の当事者コミュニティが蓄積しつつある言葉や知恵を、場面緘黙の当事者コミュニティとつないでいく(あるいは、その逆も)」、という「クロス・ディスアビリティ」の方向性 (山田さん感想より)

社会不安や症状ゆえに当事者が発信・活動していきにくい点、それゆえ保護者や専門家と協力・連携がなければ活動がむずかしい場合も多い点、成人当事者と場面緘黙児のニーズがかけ離れている点(例えば成人の場合、二次症状や後遺症があることも多く困難が複合的)、成人の支援や研究が子どもの支援より進んでいない点などは、当事者不在と受け取られやすい理由にもなっているかもしれません。当事者の発信・活動もこれから発展すると思いますが、今回の感想で綴られた「クロス・ディスアビリティ」の視点はとても大事だと思いました。

上記の「協力・連携」についてもう少し語ると、吃音とのちがいとして、場面緘黙には「クローサーや支援者の必要性」があります。
支援・活動において、当事者と保護者、当事者と支援者など、どうしても協力・連携が必要な部分と協力・連携していることによって奏功している部分があるように思うのです。安心できる状態では話すことや動くことができるため、安心できる人に付き添ってもらうことで、できないことができるようになる場面緘黙の人は多いです。そのことが、結果的に非当事者でない立場の人の参画をもたらし、活動が拡がりを持った面もあるだろうと思います。

初期は情報自体が少なく、様々な立場の人が数少ない会にコミットしてきていた面もあり、当事者・保護者・支援者・研究者がひとつの団体に属しているケースが多いです。この点も場面緘黙界隈の特徴といえるかもしれません。また、症状ゆえ当事者が参画しているのにその内部では当事者の声が最も小さくなってしまう当事者不在が起こる可能性も潜在しています(とくに、活動団体において当事者の割合が少ない場合などに起こりやすいと思います)。

話せるようになるため、あるいは自分の納得できる生活を目指すため支援を受ける際にも、保護者や支援者との連携は不可欠でもあります。(ここでの保護者や支援者を*クローサー=場面緘黙の人がこの人とだけは話せるという稀な存在と仮定するならば、)クローサーと当事者は距離感が密なため、共依存的にならないことや当事者本人の意思・意志を充分に汲んで手助け・代弁しているかなどの注意も必要です。私はクローサーも当事者研究が必要だと思っています(例えば、当事者研究でなくとも、クローサーとしての困り感・存在意義と自分自身の悩み・気持ちを切り離すよう意識するなど)。

*クローサー
場面緘黙の人にとって、「この人とだけは話せる」という稀な存在のこと。母、家族、兄弟姉妹、友達など、当事者の身近で安心できる存在がクローサーにあたることが多い。クローサー自身は必ずしも主体的に支援をする存在というわけではないが、場面緘黙当事者にとっては必要な存在と思われる。クローサーは「かんもくの声」の造語で学問的な根拠のある言葉ではない。クローサーの概念、クローサー論など別途研究中。クローサーについてはこちらにも書いています


また、場面緘黙当事者同士はそもそも連帯できるのか?(例えば吃音の言友会の皆さんのように)というのは、個人的には以前から考えてしまいます。ほかの界隈とくらべることではないのですが、なにか緘黙当事者ならではの連帯・活動のスタイルがあるような気がするのです。

例えば、

・会社的(組織として機能する、外に向かって拡がっていく)

・直接的(実際に顔を合わせて活動していく)

・継続的(コンスタントに続けていく)

なコミュニティよりも、

・家族的(ゆるやかな役割分担、少人数、完全にオープンでなく半分内向き)

・間接的(実際に顔を合わせることを重視しない)

・断続的(息切れしたら心身を休めエネルギーを貯めつつ、ぼちぼちやっていく)

なコミュニティのほうが緘黙の人たちにとっては安心して参加できるのではないかなど、感じています。さらに、対外的に意見を発していくのにも、非常にエネルギーを要します。吃音と場面緘黙でいえば、社会的な認知度のちがい、歴史のちがい、治療や支援の浸透度のちがい、男女比のちがい、社交不安障害併発の割合のちがい等が、当事者による発信・活動のあり方など、それぞれの界隈の特徴をなしているのかもしれません。吃音当事者と緘黙当事者で、発信・活動において、お互いの理解のうえ補い合うような動きが実現できるのでは?そんな可能性も感じました。

文中で、山田さんは、子どもの頃に吃音の支援を受けた体験からの違和感と、(結果的に)よかったことなどを綴っています。こうして子どもの頃に支援を受けて感じた違和感とよかった点についての実感が言葉として発信される段階に、場面緘黙は未だ届いていないように思います。子どもの頃から場面緘黙の支援を受けられている人は現状では少ないですし、現在発信している大人は支援を受けずに過ごしてきた人が多いです。場面緘黙には、吃音のような長い活動の歴史もないです。これから先、あるべき制度や支援が整い、活動や研究が進むなかで、当事者の違和感や納得などがあらわれ、発信され、さまざま更新されていくのかもしれません(そこへ到達するには、現実としてまだかなり高い壁を感じますし、とても長い時間を要するとは思いますが)。


社会での困り感がとても近く、かつ研究や活動に長い歴史をもつ吃音の方々と理解を深め合うことには、大きな意味を感じます。場面緘黙当事者が吃音の当事者コミュニティとつながっていくためにも、共通点・相違点をお互いに見つめながら、言葉や知恵を共有していけたらと思いました。そして、吃音についてもっと知り、学びたいとあらためて感じました。参加させていただき、ありがとうございました。




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