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かんもくの声の活動と場面緘黙の人が活動することについて

ここ数年、ささやかながら緘黙に関する活動をしてきて感じることがあります。緘黙に関する組織や団体が圧倒的に少ないのは、場面緘黙の認知度が低いことだけが問題ではないということです。現在、社会的認知度は少しずつ向上してきましたが、その割に関連団体や活動者は少ない印象です。一方、SNSでオフ会を呼びかける当事者の方は増えていると思います。緘黙界隈はほぼゼロからの開拓の過渡期であり、活動しやすい土壌が充分に整っていないことも一因かもしれません。それでも、「かんもくネット」や「かんもくの会」など、長く活動されている団体が茨の道を切り開いてきました。

第一の問題としては、場面緘黙の人は、症状の特性上、なかなか声があげられない。緘黙の人は自分が緘黙であることを言えない。緘黙ゆえ、緘黙に関する団体や活動は拡がりにくい。私は、この部分が想像以上に根深いのではないかと考えています。声があげられず社会にその存在すら知られて来なかった訳ですが、緘黙当事者は心の底から100%社会に知られることを望んでいないのではないかと思います。常に社会に対する不安を持っていて、それでも、社会に出てやっていかなければならない葛藤。社会や多くの他者の中へ入っていくことがとてもしんどい。世に何かを訴えるなんて、とてもじゃないけれどできない。けれども、社会的な認知も拡がって欲しい矛盾。当事者は、そういう葛藤や矛盾の中に常に身を置いています。社会に認知されるということは、私の中の一部である緘黙が、ひとり歩きして社会に出ていくことになるのではないかという不安もあります。私の一部を認められたいけれど、認められるのが怖い。自分を知られたいけど、知られるのが怖い。知られたらどう思われるだろうか?何か言われるだろうか?きちんと伝わるだろうか?場面緘黙が拡まったことによる差別や偏見もあり得るのではないだろうか?それに、世の中には他にも様々な苦しみがある。場面緘黙のことだけを声高に主張する権利などあるのだろうか?例えば私は場面緘黙以外の障害について詳しくはないように。それに、中には場面緘黙であると知りたくなかった・知られたくなかった。啓発をあまりしてほしくない。当事者の中には、もしかしたらそんな人もいるかもしれません。

緘黙状態は、常に私を葛藤の苦悩の中に閉じ込めます。私には、社会の中で、周囲の他者の中で、私という存在が「私」として認知されることが怖いという気持ちがありました。これが、場面緘黙の前提にあるのではないかと言われる社会不安・社交不安の根っこなのかもしれません。自分自身の感覚では緊張や不安を感じていなくても、どうしてもそういった感情に支配されて固まってしまいます。緘黙当事者にとって活動という社会的行為は、その症状と真っ向からぶつかることです。自身の状態を悪化させるほどに負荷がかかるため、自然とそのような行動を避けるのではないでしょうか。また、あまり表立ってそういったことをしたいと思わないのではないでしょうか(いちばん身近な存在である家族にも気が付かれにくい、親御さんも社会不安や行動抑制的な気質がある場合も多いなどの理由から、親の会など保護者の動きも長い間起こりませんでした)。

それでも、私自身は緘黙に関する活動を続けています。確かに心理的負担は大きいです。社会に発信・人前に露出することのしんどさ、対人面や交渉ごとの苦手・不安・緊張、社会や他者へ働きかけることの責任の重圧、自分がこのようなことをやってもいいのだろうか?と、常にうっすらと感じる「全世界に馬鹿にされているのではないだろうか」という漠然とした恐怖感(長年の自己否定による被害妄想癖かもしれません)、事務的な作業の日常生活への負担、発信をウェブなど世の中のスピード感に合わせようとすることの負担などなど、活動より普段の暮らしを優先すること、マイペースでやること、そう決めていますがなかなかむずかしいです。また、私にとって場面緘黙はひとつのアイデンティティであり、自己実現や自己表現のひとつでもあります。私の中には緘黙の活動に対して、人生で初めて自分が心からやりたいと思えることができた、主体的に動けた、という気持ちがあります。それまでは本当に受身で、生きる意欲さえ見出せませんでしたが、緘黙のこととなると自然と泉のようにモチベーションが湧いてきます。私の中では、過去から連綿と続く大きな自分ごとだからです。緘黙なのに緘黙のことならいくらでも語れます。そういう意味でのアイデンティティです(愛憎や、依存、自己愛も含んでいそうです)。

活動を「やりたくないけど、やりたい」「したいけど、したくない」。いつも気持ちは揺らいでいます。緘黙に関する活動を、すべてやめたくなることもあります。私の活動しやすくするための工夫としては、「(無理なく)楽しむ」「やめたくなったらいつでもやめられる」「人のため、役に立とうと思いすぎない(自己犠牲的な貢献や、共依存的な承認欲求を活動に持ち込まない。自己満足で満足する。)」意識を持つことです。現在は、ほぼ個人活動で、イベント開催のときには他団体と連携や協働のかたちを取っています。団体化や組織化は大きな心理的重圧であり、事務的な作業などは日常生活への負担になるのではないかと考えています。誰かに迷惑をかけず責任を持ちたいので、最小限の単位で動いていたい気持ちもあります。仮の宿なので社会的信頼は低いですが、公式のwebサイトなどはつくらずFacebookやTwitterなどのSNSを使って身軽に発信しています。また、私や私の活動は、緘黙の「先輩から受け継いだものを後輩に手渡す通過点である」という意識も重要と感じています。線ではなく、点でつながる。「ダルク女性ハウス」の上岡陽江さんの言葉です。今の立場は仮り=借り(もともと他の当事者とシェアしているもの)のものであり、いずれは現地点から、受け取りながら継承しつつ、移動していく。そこにいる間はしっかりと責任を持つ。私にとってはその視点が少しだけ活動に気楽さをもたらしてくれます。一度つくってしまった組織や団体を一生背負う責任や重圧などと考えてしまったら、私は身動きが取れないでしょう。とはいえ、場面緘黙当事者や家族が暮らしやすくなるためには社会的信頼を得ることも大切です。今後は、大規模で強固な団体組織や、研究者・支援者などが関わる専門機関なども求められるでしょう。私自身は、主に当事者の自助的な会として団体化や法人化も視野に入れていますが、緘黙当事者にとって、そのためのプロセスとしてはどのような道が最適でしょうか。ひとつ重要なことは、当事者ひとりひとりが、今必要なステップを踏める場を増やすことだと考えています。グループや会の中で、当事者ひとりひとりが必要なステップを踏むための土台となる「安心」が醸造され、安定化したとき、築き上げた醸造と安定化の継続のため、団体化や法人化の必要性が自然と出てくる。そんな気がしています(この醸造とは安心できるための土台であり、人、場所、共有してきた活動と時間、役割、信頼関係、雰囲気、それまでの会の継続から自然と生まれた理念や指針、ルールのようなもの、などの要素があると思います)。

私自身は、かんもくフォーラムで実行委員として活動することで自己実現・自己表現と成長のステップを踏ませてもらいました。次は、新たな当事者たちが、必要な段階のステップを踏めるようにしたいのです。そのような場を必要とする当事者たちに、かんもくフォーラムの運営や企画を楽しみ、通過していってもらいたいと考えています(かんもくフォーラム実行委員会の総意ではなく私の個人的意見です)。また、ここで言う緘黙当事者にとっての活動を「楽しむ」は、かなりのしんどさを内包しています。場面緘黙当事者にとって、(社会不安や社交不安を根っこに抱えながら)社会的活動や社会的信頼を得ることは、緘黙でない人々がそれをすることの何倍も大変なはずです。真っ向から自分の症状とぶつかります。私自身、正直かんもくフォーラムの開催や活動がかなりしんどいため、毎年決まって「来年こそはやめよう」と思います。ですが、終わってみると「大変だったけど楽しかった、やっぱりまた来年もやろう」と思えます。たくさんの方々と協力し合えた喜び、参加してよかった、また開催してほしいなどのお声をいただけたこと、そのような他者の力が大きいのだと実感しています。それは、原動力でもあり重荷でもあります。私の経験からの意見ですが、場面緘黙の活動や団体化などにあたっては、当事者の苦手を支え助けながらともに活動してくれる、当事者以外の立場の人との共同・協働は必要不可欠です。活動において、当事者主体を尊重し、当事者の声を丁寧に聴き取り寄り添い導いてくれる人たちの存在は肝要です。国内最大の場面緘黙児支援団体であるかんもくネットも、専門家、保護者、支援者らの活動から始まっています。多くの障害に関する団体は、まず保護者の訴えからつくられている歴史もあります。症状の特性上社会でとくに声をあげにくい緘黙当事者にとって、信頼できる当事者以外の人に助けを得ることの必要性はひとしおです。場面緘黙当事者にとっては活動が非常にしんどいので、元当事者・経験者を中心として活動するというモデルも考えられます。当事者団体をつくりたい場合は、社会経験があり柔軟に動ける元当事者や緘黙経験者の存在が肝になるのではないでしょうか。私も、最初は緘黙経験者・当事者のみによる自助的な場を志向していました。現在は、他の当事者や経験者に負担をかけてしまう気がして役割などをお願いしにくいこともあり、当事者以外の人にも助けてもらいながら活動することがほとんどです。当事者にとって、苦手なことの領域はある程度重なっていると思うのですが、その領域が得意な(当事者以外の)人と活動を進められると役割分担がスムーズです。もちろん当事者同士でしか共有できないものもありますから、当事者特有の感性や苦しい経験を自ら理解しようとしれくれる人だとなお良いと思います。身近な、信頼関係が結べている人に頼れるとよいのですが、頼ることは当事者にとってはハードルが高いことでもあります(私も、できるなら、ひとりで全部やってしまえた方が楽だと考えていました。でも、私ひとりでは何もできませんでした)。主体的なコミュニケーションの必要や人間関係の構築・継続が求められます。また、当事者のみで活動できるようになったら、自分の役目は終わったと思って去るというスタンスの人もいます。手伝う、おしえるなどのサポートのみならず、一緒に活動をする非当事者自身にも、主体性が必要だと感じます。

私は社会=他者が怖い、社会が信じられない。それは社会=他者(だけ)のせいでも私(だけ)のせいでもありません。社会というと大きな世界ですが、私が少し動くことによって生活圏内の私の周りが少し変わっていくかもしれない。それを続けていくことで、私が暮らしやすくなることは、他の人も暮らしやすくなることかもしれない。かんもくの声の活動に対しては、そんな小さな働きかけをイメージしています。Twitterでの誰かのひとことも、とても大きなはたらきかけです。結果的に、小さな波紋が広がり、ほかの緘黙の人たちも生活や活動がしやすい社会になったならとても嬉しいです。家から一歩外へ出ると、周りの目が気になってしまう。特に気にしている意識はなくても、どうしても気になるし、緘黙の症状が出てしまう。社会に過剰適応しようとしてしまう癖がありながらも適応できず、自己否定をする。私を深く自己否定させる社会や常識を「どうしてこうなの」とそしる。
社会や周囲に「適応しなければ」と強迫的なまでに感じてしまう私の心身は確かにあるが、根本的にこの社会はそんなにも「正しくて絶対的」なのだろうか。地獄を這うような無理をしてまで、合わせる必要があるのだろうか。(中に入るとどうしても合わせようとしてしまうけれど、)合わせることがしんどい社会なら、無理して合わせなくても心地よくいられる社会に、少しずつ少しずつ変えていこう。理想論かもしれないけれど、ほんの微力でも、何かできるかもしれない。どうして話せることが普通なの?どうして話す行為だけで通じ合おうとするの?そもそも普通って何だろう?話せない人・話さない人、ひとりひとりの普通があって、皆がその人なりに存在していてもいい。

私は幼い頃から、漠然とした「社会的規範に沿わなければならない圧力」を強く感じていました。話せなくなるとき、動けなくなるとき、世界で私ひとりだけが教室での振る舞い方や友だちとの接し方のマニュアルを、脳みそにインストールされ忘れたのではないかというような不安に包まれました。社会に完璧に溶け込まなければならないという強迫観念。他者や社会を(無意識に)意識し過ぎているのかもしれません。そのためか、私は社会への過剰適応を志向しがちでした。その結果として、活動の方法に正攻法や王道を求めたり、細部まで完全に準備を進めてから物事を行う=そこまで準備してからではないと動けないという完璧主義に取り憑かれていました。完璧につくりあげたものならば人目に晒せるという意識があり、絶対に落ち度を指摘されることのないようにしなければと思っていました。本当は誰かひとりにでも落ち度があると指摘されることが怖くて嫌で、それを絶対に阻止したかった。つまり、人目を気にして何事もローンチができなかったのです。実際には、目標や理想通りの準備を自分一人で完璧に行える計画性や能力、キャパシティ、社会性、常識、経験値、知識など、私は何も持ち合わせていませんでした。結果、無能な私は勢いで活動を始めるしかありませんでした。SNSも本来は苦手でしたので、自信がなく完璧ではない発信を晒している恥との戦いでもあり、しんどかったです。何度書き直しても自信がなくて、何が完璧か分からないときもありました。自分にとっては恥を晒すことも大切な気がしていたので、あえて自分の性格と反対のことをするのはいいことなのだと言い聞かせ開き直りました。生理的な志向と相反する行動を選ぶのは気持ちが悪いことですが、私にはとても楽観的で適当な面もあり何とか進んでいきました。ローンチでは、思う通りの道筋で物事が進められないことも多々あります。それが耐えられず許せなくなる時もあります。でも、現実的には仕事や家事や活動などで日常生活は多忙、なかなか緻密な準備をする時間も取れなくなっていきました。私の発信などを読んだ人に、頭悪い、ダメ、ざっくばらん、支離滅裂で中途半端などと思われてもいい(もちろん本心は嫌だけど)。本当にダメダメで頭が悪いのだから頭の良い人から教えてもらおう。いや、頭の良い・悪いとか、成功や失敗とか、正解や間違いがあるわけではないんだ。先に経験している人から教えてもらうんだ。そういうスタンスに切り替えました。「弱さの情報公開」(by べてるの家)をすることで、助けを得て繋がろうと思ったのです。また、少しでも自分を晒すことで、少しでも私を理解してくれる人や導いてくれる人と出会うことを望みました(でもやっぱりSNSは苦手です)。そして今まで、たくさんの人の助けを得て、これまで活動してきました。それでもまだまだ自分を晒すことが下手で、弱さを出し切れていなくて、自ら緘黙当事者の人たちに助けを求めることはとても苦手です。もちろん、自分で出来ること、自分で学べること、自分で責任を取ることの領分はわきまえたいと思いますが、同じ緘黙経験者・当事者の中でも、お互いの苦手や得意の需要と供給をシェアしてひとりひとりに無理のない会を運営できたらと考えています。また、活動においては場面緘黙ではない障害や属性を持つ人たちとの交流も大切だと考えています。症状が通底していたり、属性にかかわらず近い困りごとを共有している場合もあります。何かの当事者として、同じ方向を向いている団体は多いはずです。場面緘黙のことだけを一方的に発信するのではなく、他の障害の人たちの声にも耳を傾け社会全体においての「生きづらさ」「生きやすさ」を考えることも重要です。そうすることで初めて浮かび上がってくる場面緘黙の姿もあります。そして、属性に関わらず連携し団体同士の横のつながりから、生きやすい社会へと意識を底上げすることも必要です。

かんもくフォーラムでは、イベントという事象を通じて多くの団体や人が点と点でゆるやかにつながった気がしています。それぞれが各地で普段積み重ねてきたものを、イベントという目的のもと持ち寄る。共通の目的下での、点と点のゆるやかなつながりが心地よく、お互いにとって効率的であると感じています。もちろん、もっと緊密に線でつながることもできると思います。例えば、他の障害の人たちの組織や団体は様々ありますが、規模が大きくて結束が強固だったり、全国的で裾野が広く見えたりします。それらの組織の発展の仕方やペースそのものが、各障害の人びとのカラーや特徴を反映しているのかもしれません。緘黙関連の団体やイベントは、まだ発展途上なので広がりがない・手づくり感が強いだけではなく、自分の生活圏内を大切にする・あたたかみがある・ゆっくり丁寧に進むなどの、緘黙の人たちのカラーや傾向であるように思うことがあります(私個人のイメージではありますが)。私自身も、活動の理想形など、つい既存の王道スタイルを踏襲することばかりにとらわれてしまうのですが、緘黙当事者にとっての心地よさを踏まえると、既存のスタイルではない発展の仕方もあるのではないかと思えます。SNSやイベントなどを通して点と点でつながっている現在の状態を、緘黙の人たちのある程度の最適解と捉えてみてもいいのではないか。各地でその時に心身の余裕のある人がオフ会を開いている。イベントで同じ空間・時間を共有していても話さないけれど、Twitterではつながっている。対面や直接ではないつながり方。現在の緘黙界隈の土壌を構成している要素をひとつひとつ検討し、既存のスタイルにとらわれない形を考えつくっていく視点も大切なのではないか。緘黙の人が心地良い環境や設定は、当事者にしか分からない。当事者の身体感覚などを頼りにして、「緘黙のバリアフリー」を少しずつ構築できるのではないか。それは当事者と社会との関係性でもある。そう感じています。

様々な規模や形態の緘黙関連団体や会が増えて、当事者や保護者の社会生活における選択肢や、頼れる・守られる場所としての依存先が増える。そんな、当事者自身が自分に合った暮らし方を選択できるような環境に、いつかなってほしいと願います。その中で、当事者が一歩踏み出したいと思えたとき、行ってみようかなとアクセスできる場所があること。その環境で、その人のペースで必要なステップが踏めることは、とても大切なことだと思うのです。今現在も、緘黙で苦しんでいるけれどその苦しみから楽になるための糸口を見つけられないでいる。そのような人は多くいらっしゃると思います。確実に社会的認知の向上と活動の拡大に緊急性はあるのですが、私自身の当事者・経験者の自助的活動としては、かんもくの人たちの心地良いペースで、急がば回れで急ぎたいと思うのです。

*この文章は場面緘黙経験者としての個人的意見です。緘黙の方たちや緘黙の活動について一定のイメージを決めつけるような意味合いはありません。人はひとりひとりちがう感じ方、考えを持っています。

==お願い==
いろいろ書きましたが、無理せず、精一杯でも、半歩ずつのペースでしか動けないと思います。それでも、かんもくの声の活動にご賛同いただける方がいらっしゃいましたら、下記のサポート機能より是非ご寄付をお願いいたします。これまでの活動では自分のお金と時間を使ってきましたが、やはり限りがあります。恐縮ですが、これからの活動の向上と継続のため、活用させていただきたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。

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