マギー・ジョンソンさん SM H.E.L.P秋サミット講演(その1)
昨年の場面緘黙啓発月(10月)には、米国のSM H.E.L.P.でもオンラインサミットが開催されました。「青年や大人の場面緘黙症」をテーマに、英国で場面緘黙治療の先駆者といわれるSLT(言語療法士)のマギー・ジョンソンさんが講演。マギーさんの場面緘黙との出会い、スライディングイン法など治療法の考案、さらに症状の改善に役立つアドバイスなど盛りだくさんの内容でした。
●場面緘黙との出会いと1970年後半~94年前半までの状況
マギーさんが場面緘黙と出会ったのは、まったくの偶然でした。SLTの資格を取って初めて治療にあたったのが、話さない15歳の少年だったのです。保護者も周囲もどうしていいか分からず、その少年は全寮制の特別支援学校に入れられ、唯一話せる母親からも離れて生活していたそうです。
新米のマギーさんの仕事は、当時「選択性緘黙(Elective Mutism)」と呼ばれていた症状を持つ少年を話せるようにすること。初めて聞く症状名でした――1970年代後半にはまだインターネットもなく、医学事典に載っていたのは「本人が話すことを拒否している」という記述のみ。
(「選択制緘黙」は80年代前半にDSM-III(アメリカ精神医学会による診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)に初めて登場しています。その説明は「話すことへの継続的な拒否(persistent refusal to speak)」というものでした)
少年が母親と連絡を取るためには、寮の公衆電話を使うしかありません。でも、その場所にはいつも他の生徒や教師がいて、話す声を聞かれてしまいます。驚いたことに、彼は電話をトントン叩いて音を出すことで、母親とコミュニケーションを取っていたとか。
マギーさんは「何も知識がないから、彼と向かい合って座っていたの。私の視線をまともに受けて、長い沈黙がどんなに苦痛だったことか...」と当時を振り返ります。
ある日のこと、ふと見ると沈黙し続ける彼のほほにひとすじの涙が…。それを見て、マギーさんは「この子は話すことを拒否してるんじゃない。わざと話さないんじゃない。専門書は間違っている!」と直感したそう。でも、どうしたら彼を助けることができるのか、まったく見当がつきませんでした。
この少年が学校を去った1年後に自殺を図ったことを知り、マギーさんは大きなショックを受けました。そして、この体験こそが、場面緘黙の治療法を編み出すミッションへと彼女を駆り立てたのです。
この少年との出会いがなければ、マギーさんが多くの場面緘黙児や青年・成人を助けることはなかったと思うと、運命的なものを感じますね。
マギーさんが次に出会った場面緘黙のケースは、同様に全寮制の支援校にいた8歳の男の子。このケースでは、まずは話すことへのプレッシャーを取り除き、非言語でのコミュニケーションを取るようにしました。子どもは話したいと思っているけれど、何かが話す妨げをしていること、おそらくそれは不安によるものだろうと気づいたからです。
教育心理士に相談し、自分の持つコミュニケーションの知識と心理士の持つ不安の知識を合わせて、スモールステップ方式の取り組みを考案。その取り組みによって、その子は1年半でマギーさんと話せるように、そしてさらにその後半年で誰とでも話せるようになったのです。何よりも嬉しかったのは、彼がとても幸せそうになったこと。それ以来、学校でもクリニックでも同じようなスモールステップの取り組みを行うようになりました。
場面緘黙の研究が進んで、1994年に発表されたDSM-IVでは、名称が 「選択性緘黙(Elective Mutism)」から「場面緘黙(Selective Mutism)」 へと変更。小児期の不安障害のひとつとされ、定義も「ある場面では継続的に話せない(consistent failure to speak in certain social situations)」という記述に変更されました。
それでも、その不安がどこから来るのかは謎のままでした。
(次回に続きます)
かんもくネット事務局 みく(ロンドン在住)
注:翻訳には最善をつくしましたが誤訳があるかもしれません。どうぞご了承ください。