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隙自語

 以前の記事を書いていた時に生まれた隙自語を分離させた、いわば長ったらしい自己紹介のようなものだ。
 これはわたしの人生の振り返りを含む、日記のようなものなので、他人の人生に興味のない方はブラウザバックした方が良い。
 この文章に有用性があるとしたら、暇つぶしくらいだろう。誰かの暇つぶしになるかもしれないと思うことさえおこがましいかもしれない。

回想(~高校)

 わたしは幼い頃、大学生になるくらいまでには死ぬのだと思っていた。
 あるいは、自分という意識は徐々に別の何かに入れ替わって、一番楽しい今という時間が永遠に続くかのような気持ちでいたような気がする。
 別に、学校が嫌だったわけじゃない。
 その時は仲の良い友達もいたし、いじめられていたわけでもない。
 体育の授業はずっと嫌いだったから当時は本当に憂鬱で、もちろん行きたくない日だって山ほどあったとは思うが、人生がまるごと嫌になるほどではなかった。
 ただ、家族が自分より先に死んでしまうかもしれない悲しみや、はるか遠くに待ち受ける受験や労働といった、漠然とした「嫌なこと」から逃れるための妄想だったのかもしれない。
 妄想ではあったけど、子供の頃の自分は「今の自分」などという不確かなものが永遠に続くとは思えなかったようだった。

 どうやらそうではないらしいということに、大学受験〜社会人になる直前くらいに気付いた。気付いたというよりは、それだけの時間をかけて、様々な出来事を経験するうちに実感した、というのが正しいかもしれない。
 高校生くらいまでは、友達がそう宣言していたように、二十五歳前後で結婚して、子供を産んで、仕事を辞めて、わたしの母がそうであるように、子供を大事にしながら生きていくのだろうと思っていたかもしれない。

 でも別にそんなことはなかった。
 高校三年生の時だ。その年のクラスの組み分けが発表されるまでに、わたしのクラスの女子は既にグループを作っていて、わたしの入る余地はなかった。
 わたしはいつも、クラスの中で、常にくっついて行動できる相手が一人いれば良かったのだが、高校三年の時はそういう相手を作る余地さえなかった。(高校二年まで仲の良かった子は理系だったので、クラスが別れてしまった)
 仕方がないので、三年生の昼休みは隣のクラスに行って、比較的仲の良かった友達と弁当を食べていた。今思うとその境遇って結構辛かったのではないかと思うが、わたしは幸い昔のことをあまり覚えていないので、今思い出しても辛い……ということは、特にない。
 ただ、その時から、わたしのぼっち気質のようなものは確実にあったのだろうなと思うのである。

回想(~大学)

 大学のときは、入学前後に新入生で集まってコミュニティを作るという場があったが、わたしは実家から一時間半かけて通っていたので、そういった余計なイベントには一切出ようとしなかった。
 だが、わたしが選んだのは小さな学科で、女子は全部で十人前後。学科専門の講義が始まれば、わたしもその輪の中に入れてもらって、あとはすんなりと入っていけた。結構楽しかった。
 ただ、サークルには入らなかったので、先輩に過去問や資料を提供してもらって要領よく単位を取る……みたいなことはできなかった。
 そういったことをしていた子に嫉妬心を燃やしていたのも、今思えば可愛いものだろう。多分。
 念のため言い添えておくが、その感情を本人に向けたことはない。人との繋がりを大切にして情報を得ることは努力のひとつだろう。わたしにはそれができなかったし、やりたくなかっただけだ。一緒にたこパや鍋パをして、ぼっち気質のわたしに貴重な経験をさせてくれた、大事な友人の一人だと思っている。
 それでもやっぱり、わたし自身が全ての講義に出席し、自力で暗記して単位を取った講義を、最低限の出席日数と過去問を解くだけで乗り越えた彼女に悔しさを覚え、「これで彼女に学科首席を取られた日には、流石に笑顔で接することはできないかもしれない」と思ったことはある。あるが、学科首席はわたしが取ったので、そんなことにはならなかった。
 わたしは義務付けられればそれなりに努力ができたし、その努力に結果が伴うくらいの力を両親より賜っていたのである。(遺伝だけではなく躾としても)

 これは別の記事でも話したことだが、わたしは学生時代、しっかりと勉強をしてきた。親に言われて渋々……ではあったものの、向いているのだと思う。ただし向いているのは勉強ではない。暗記だ。
 わたしは以前ファミレスで自分が注文したメニューが美味しかったかどうかは全く覚えられないので、母親に「前わたしがこれ食べたとき、美味しいって言ってた?」というように記憶を外注しているが、勉強に関する物事を覚えるのは得意だった。

 中学生に上がる前に、塾で英語を習い始めた。
 わたしの世界にはそれまで、アルファベットの書き方といえばローマ字しかなかったので、英語という概念(日本語以外の言語であるということ)がまったくもって理解できず、「何かを理解できない」という問題に初めて直面し、そのことがあまりに辛くて泣いた(あるいは泣きそうになった)記憶がある。
 当時のわたしには理屈がわからなかった。当たり前だろう。言語がその言語である理由、その文字を使う理由、その発音である理由なんぞ、中学一年でわかるはずないだろう。というか知らなくていい。
 そこでわたしは理解を諦めた。「これはそういうものである」と受け入れることにした。ただ文字の羅列と意味と発音を暗記することにした。英語はあっという間に得意科目になった。
 数学でも古文でも歴史でも理科でも同じことを繰り返した。特に困ることはなかった。学校教育は暗記さえできていればどうにでもなるものだ。本質を全く理解していなくても。
 暗記して、テストでいい点を取れば、両親や好きな先生が褒めてくれる。わたしは嬉しかった。それは結局大学まで続いた。

 わたしがこういう暗記学習に疑問を覚えたのは、高校三年で、大学の進路に悩んだ時だったと思う。
 わたしはそれまで本質を理解せずにたた暗記学習を積み重ねていただけだったので、大学を決めるという段階になってほとほと困り果ててしまった。興味のある分野などなかったためである。
 当然だろう。テストで良い点を取るのが楽しい、ドロップアウトしたくない、くらいしか、勉強をする理由なんてなかった。
 大学の四年間、専門性の高い勉強や研究をしたいと思えるほど好きな分野なんてなかった。
 両親や先生は、わたしのためという気持ちももちろんあっただろうが、成績を見て著名な大学の名前を挙げてくる。でもわたしにはなんとなくわかっていたのだ。
 わたしは周りのみんな(高校三年の時のクラスは選抜クラスだった)みたいにそういう大学に行きたい気持ちがないし、どこかの大学に行ってこういうことを学びたいなんて目的もまったくない。まして働きたい分野もない。
 暗記が得意なだけで、好きなもののない、ただ数3Cと物理をやりたくないというだけの理由で文系に進んだ自分が、適当に経済学科や経営学科に行って、四年間も耐えられるわけがない。
 そんなところに行ったら、みんなの期待を裏切って、ドロップアウトして終わりだ。だったら高い学費を払うより、嫌だけどさっさと社会に出て働いた方が良いのではないか?
 わたしは本気でそう思っていた。誰も本気にはしてくれなかったが。
 もちろんわたしの心配は杞憂だったかもしれない。当時の自分であれば、それなりに努力すればそれなりの大学に受かった自信はある。
 他の学科が同じかどうかはわからないが、わたしが大学を卒業できたのは、単に真面目に講義に出て、暗記を頑張ったからだ。他の学科でも全く通じないということはなかっただろう。そういう選択をした人生もあったのかもしれない。
 でもわたしはそうはならなかった。高校で、かろうじて好きだと思える分野を見つけることができたからである。

 わたしは文系だったが、どうやら理科が好きだったらしい。ただ暗記をするだけだった時には気付かなかったが、よく考えてみれば、何故そうなるのか、ということを突き詰めて考えればそこに理屈があり、因果関係を説明することができる。その単語を覚えるだけでは感じられない喜びを見つけることができたのだ。
 これはおそらく他の分野にも言える話だと思う。歴史だって、単語と年代を覚えるだけではつまらないが、何故そうした出来事が起こったのか、遠因は何か、近因は何か、当時の時代背景は……そういったことを追いかけて、全体像を把握していくのはわくわくしそうだ。
 だがわたしは世界史を取っていた。ただ単語と年代と人間の名前を詰め込むだけの授業だ。先生が悪かったのではない。受験のために覚えることが膨大にありすぎて、そんな深淵の話をするには時間がなさすぎる。
 結果として、授業では実験に時間を多く割き、休み時間や放課後にわたしが準備室をしつこく訪れても嫌な顔ひとつせず面白い話を聞かせてくれた理科の先生のおかげで、わたしは理系に進もうと思うことができた。
 理転するなら、わたしが実家から通える範囲の大学を選択しても、そうは責められまい。しかも都合の良いことに、わたしの学びたい分野の学科はどこの大学にでもあるわけではなく、ちょうど近場ではその大学にしか当学科が存在しなかった。
 これは良い。園児の頃からずっと一緒に暮らしていた犬と離れずに、一人暮らしをすることもせずに、それなりに興味のある分野を、暗記教育から解き放たれた環境で真の勉強ができるのだ。

 わたしはそんなふうに思った、ような気がする。しかし大学でも暗記からは逃れられなかった。そんな中でも本質を理解する努力をすれば良かったのかもしれない。
 けれど、たぶん、そうするには難しすぎた。わたしの頭はそんなに上手くはできていないのだ。暗記はできるものの、得た知識を組み立てることは、上手くできない。
 ゼミの先生には卒論を褒めてもらえたし、学科首席だって取ることができた。だからもしかすると、これは過小評価なのかもしれない。けれど、単位を落として留年してしまった同期生が、しかしフィールドワークでは抜群の才覚を発揮してトップを掻っ攫って行く様子を見ていると、わたしの評価はやっぱり正しいと思ってしまうのだ。
 暗記よりも、得た知識を使って何ができるか?ということの方が、よほど価値が高いはずだ。
 学校教育というものは難儀なものだ。もしこの問題が解決された時代に生きていたとしたら、わたしはいわゆる落ちこぼれだっただろう。(詰め込み教育が改善される頃には、そんな概念もなくなっていれば良い)

現在に至るまで

 学生時代はそんなこんなで、結果が伴う生活を送ってきた。両親と高校の先生のおかげで、就職活動に苦労することもなかった。
 高校生の頃、高卒での就職の実態をわかっていなかった無知なわたしだが、その無知さを顧みることはなかった。就活一ケ月後、二社目で内定を出して頂いた瞬間、就活を続けるのが嫌だからという理由で就活を止めてしまったのだ。
 会社の形態をよく調べずに決めてしまったことが、今現在のモヤモヤに繋がるわけだが、わたしは現在の苦労を過去に責任転嫁はできないと思っている。その当時にそこまで調べたかっていうと、わたしがそんなことするわけないからだ。たとえ過去に戻ったとしても、わたしは何度でも同じ選択をするだろう。大学選び然り。
 大人になれば、それは止めた方が良いと言ってくれる人はいない。社会に出ると正解らしい正解がわかりにくいから、というのも大きいだろうけれど。
 やや脱線したが、わたしは幼い頃漠然と嫌がっていた労働という日々にすっかり呑まれてはいるものの、学生時代に戻りたいと思ったことはない。もう勉強なんてこりごりだからだ。

 本当は労働の話もしようと思っていたはずだが、この場所では仕事と趣味以外の話を中心に壁打ちしていくことにしようと考えなおしたので、そちらは割愛しようと思う。
 ダイジェストを一言で言うと、社会人経験三年目まではわたしにはすこぶる合わない仕事をさせられ、しかし人間関係が良かったおかげでものすごく楽しく働くことができたが、その後は……というところだ。
 
 労働に不満がないとは言わないが、年代平均程度には貯金もできているようだし、両親も幸い健康で、ファンタジースプリングスに一緒に行くことが、今のわたしの一番の楽しみだ。初めて調べて払ったバケパの代金が友人の新婚旅行と同じ金額でマジか~と驚いたが、まあそんなことはいい。
(この記事を書いたのは旅行に行く前だった。旅行には無事行けました)
 大学時代にほとんどバイトをしていなかったわたしは、初任給でswitchとスプラトゥーン2を買って遊び倒した。確かブレスオブザワイルドも買ってめちゃくちゃ遊んだ。600時間くらい遊んだ。
 自分のお金で自分の好きなものが買えるって幸せだ。

終わり

 何が喋りたかったんだっけ?
 何せこの記事を書き始めたのは半年以上なので、よくわからなくなってしまった。でも、現実の人間にそのまま喋ると自慢か卑屈かというふうにしか聞こえないだろうから、徒然なるままにどうでもいい個人の人生の話を吐き出しておくことができたのは良かった。
 わたしは本当に口下手だが、文章ならば雄弁でいられる。

 最初に書いた記事にもある通り、この年代にはよくあるこれからの人生への不安と、それでも好きなことがあれば救われながら日々を生きていくことはできるというような、ここ数年は特に不安定な毎日を送っていた。
 今年はその集大成だ。こんなに嫌な集大成があるかというくらい人生に迷走している(現在進行形)ので、その記事も書ける範囲で書こうと思う。
 締めが締まらないが、とりあえずこの記事はこんなところで。