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風を待つ<第9話>額田王の歌

毗曇ピダムという男を知っているか?」
「ええ――兄上の……金庾信キムユシン麾下きかです」

 文姫は毗曇をよく知っている。庾信とも、金春秋とも親しかった。
 優秀な花郎ファランで、上大等サンデドゥンの地位にまでのぼりつめた。女王の政治は庾信と毗曇によって支えられていたといってもよい。

「その毗曇が、謀反を起こしたそうだ」

 金庾信からの書簡によると、女王は、毗曇が起こした内乱を鎮圧するために出陣していた。その陣中で病にたおれれたらしい。

「あの毗曇が、裏切った……」
 なにゆえ、と言いたい気持ちをぐっとこらえる。倭国にいる文姫が喚いたところで、何もできない。

 それに、女王は強いお方だ。毗曇の謀反ていどで揺らぐお方ではない。

 だが、庾信が緊急に金春秋を呼び戻したことは気にかかる。それほどまでに事態は緊迫しているということか。女王が病というが、まさか――毗曇に討たれたのではあるまいか。

 中大兄皇子は、文姫の顔色をうかがっている。
「大丈夫かな?」

「……申し訳ございませぬ、新羅の一大事とあれば、夫が帰国を急ぐのも当然のこと。事情をお話しくださり感謝申し上げます」
 文姫は静かに中大兄皇子に礼をした。

「不安であろうが、あなたの夫は、新羅王として即位されるだろう。それまで近江で迎えを待つとよい」
 中大兄皇子はなぐさめるように微笑する。
 ふつうの娘ならば、故郷に内乱が起きたと知り、平静ではいられぬだろう。だが文姫は事情がわかるにつれ、かえって平静になっていた。

「夫はまだ新羅王にはなりませぬ。夫は、唐や高句麗とも談義をせねばなりません。王となれば新羅から出るわけには参りませぬから。女王になにかあれば、女王の妹、勝曼スンマン公主が次の新羅王となるでしょう」

 たとえ、女王が凶刃に斃れたのだとしても。
 勝曼公主をつなぎとして女王にたてることで、女王崩御の衝撃を少しでも緩和できる。動揺が広がらぬように、兄は必ずそうすると文姫は思う。新女王即位を説得するため、金春秋を帰国させたのだ。

「ですから、私は当初の予定どおり、――」
 倭王の妻となります、と言いかけて文姫は口を閉ざした。中大兄皇子をちらりと見る。皇子の全身から放たれていた光は何だったのか。今は月明かりに照らされてよくわからぬが、中大兄皇子は淡い光を放っているように見える。

「聡明な妃ですね、あなたは」
 中大兄皇子は目を見開き、愉快そうに笑った。

「あなたは政治のわかる妃だ。ものごとの情勢がわかればきっと落ち着くと思いましたが、これほど先を読まれるとは思いませんでした」

 たしかに、情勢がわからぬことほど不安なことはない。金春秋が生きているとわかった今、文姫はおのれの役目を果たすだけである。夫も、兄も、女王も、それぞれの役割を懸命に果たしているのだ。

「お見苦しいところをお見せいたしました」
 文姫は恥じた。どのみち、おのれは倭国にとどまる身であった。金春秋と帰国するなど、ばかなことを考えていた。
 
 金春秋の迎えなど待っていてはいけない。
 文姫ひとりでも、倭国との同盟を成立させてみせる。
 そのためには、倭王の子を産むという大任を果たさなければならない。

 気を持ち直したものの、倭王の子を産むには中大兄皇子の妻として迎えてもらわなければならない。
 中大兄皇子の心情はどうだろう。
 一度は文姫を迎え入れると約束したものの、皇祖母尊により反故にされた。もう、文姫への興味を失っているかもしれない。

「近江で待っていてもよいとの、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか」
 
 もしも、要らぬ――といわれたら。
 不安を押し隠して、文姫は皇子に問う。

「おお、むろんだ。いつまでもおってよいぞ」
「いつまでも……」
 文姫はどきりとする。では、中大兄皇子は文姫を妻として迎えてくれるのか。

 はやる気持ちを押さえつけた。あれだけ取り乱した後に、妻に迎えてくれと願うのも恥ずかしい。しばらくは中大兄皇子の恩情に甘え、ようすを見ようと思った。

「腹が減っておるだろう?」
 中大兄皇子が手を叩くと、采女たちが食事を運んできた。小さな膳に、少量の菜が彩りよく並べられている。
 中大兄皇子は雉肉に手をつけた。文姫も空腹だった。雉肉は塩がきいて美味だった。

「口に合うかな」
「はい、とても」

 ようやく生きかえった心地がした。
 倭国についてからというもの、何を食べても味を感じなかった。異国の料理ゆえと思っていたのだが、文姫はあまりに気を張り詰めていたのだ。
 これほど雉肉を美味だと感じたことはないかもしれない。新羅にいたときでも。

「笑うと可愛らしい」
 指についた雉肉の脂をぬぐいながら、中大兄皇子が言った。
 
 ――可愛らしい?

 おのれのことを言われているのだと気づいたとき、文姫は動揺して、菜の器をすべり落とした。

 可愛らしい?

 美しい、と称賛されたことはあっても、可愛いなどと言われたことはこれまで一度もなかった。そんな言葉をかけられたことのなかった文姫は、ひどく動揺した。なんと答えてよいのかわからなかった。

「……額田王に似て、ですか」

「いいや、よく見ればそれほど似ておらぬ。大海人はあの娘に惚れ込んでおったが、美しいだけの女などいくらでも手に入る。だが政治の話ができ、しかも可愛らしい女など、めったにおらぬ」

 中大兄皇子は品定めをするように、まじまじと文姫を見つめる。文姫は全身が熱くなってきた。

「……額田王とは、どのような方かお伺いしても?」

「気になるか?」
「ええ、さすがに」
「まあそうであろうな。額田王は、歌人だ。皇祖母尊に仕える采女だった」
「歌人……?」
「行事で詠まれる歌をつくる者だ。才知あふれる額田王を、皇祖母尊は寵愛していた」
「倭国では、女人が歌をつくるのですか」

 新羅でも郷歌という歌がある。王の武勲を讃えるものや、女性の美しさを称賛するような歌が多い。いずれも男がつくる歌である。
 
 額田王に対する印象と、勇ましい歌をつくる姿が一致しない。首をかしげていると、中大兄皇子がひとつの歌を口にした。

  秋の野の み草刈りき 宿やどれりし 
  宇治の宮処みやこの 仮廬かりほし思ほゆ

「これが、倭の歌」
 言葉のひとつひとつが、色を成し、いきいきとしている。秋の黄金色に輝く稲穂の風景が目に浮かぶようである。

 衝撃だった。これほど短い歌で、倭国のすべてを凝縮したようだ。

「額田王が詠んだ歌はいくつもある。優れた歌人であった。惜しいことよ」
 中大兄皇子の横顔は寂しげに見えた。

 ――皇子もまた、額田王を愛していたのだ。

 先ほどの額田王の歌は、景色を歌いながらもどこか愛するひとへの思いが感じられる。宇治の宮処にあるいおりで、誰かを待ち侘びているような……

「額田王の話は、もうよいかな」
「はい……」

 文姫にはこのように風情ある歌はつくれない。教養として書物は学んでいるものの、歌を詠もうなどと考えたこともなかった。

(額田王は、きっと私よりも美しい)

 恥ずかしさと悔しさで、文姫はこの場から逃げ出したくなる。

 采女という身分から、額田王を見下していた。見下していた相手に、おのれの未熟さを思い知らされた気分だった。

 今まで、文姫は自分が新羅で最も美しい女だと信じて疑わなかった。母よりも、女王よりも、妹よりも、文姫は美しいと信じていた。月城ウォルソンに仕える侍女のだれひとりとして、文姫よりも美しい女はいない。

(でも――殿君は……)
 金春秋は、文姫を愛していなかった。

 花郎長の庾信と親戚になるために、妹である文姫を妻に迎えた。子をつくるためだけに、文姫を抱いただけだ。だから、子が生まれて目的を果たしたいま、倭王へ捧げても惜しくない女なのだ。

 ところが、額田王はどうだろう。
 類稀たぐいまれなる歌の才能を持ち、大海人皇子に愛された。大海人皇子の妃となり、亡くなったいまでも大海人皇子は額田王を思いつづけている。
 中大兄皇子もまた、早逝した額田王を想っている。

(私ごときが、似ても似つかぬ娘だ)
 文姫は目元が熱くなった。このままでは泣いてしまうと思い、ぎゅっと目を閉じる。
 
 ――私も、愛されたい。

 どうすれば額田王のように愛される女になれるのか。

 額田王のように、情緒あふれる歌を詠めたら。
 夫も、文姫を見てくれるのだろうか。

「皇子、私にも倭国の歌を教えてください」
 するりと言ってから、文姫ははっと口をおさえる。
 
 これまで、誰かに何かを教えてほしいなどと懇願したことがなかった。
 唐の学問を教えにくる僧侶たちにさえ、文姫は頭を下げたことがない。それどころか、女王や夫にさえも、礼儀として額衝ぬかずいているが、心からの礼をしたことがなかった……

 その事実に気づいて、文姫は愕然とする。

「額田王のように愛されたい。私に歌を教えてください」

 あふれ出る思いがとめられなかった。心からの叫びだった。新羅の妃であるとか、中大兄皇子の前であるとか、そんなことはもうどうでもよかった。
 だれかに強く愛されたい。愛したい。たとえこの身が滅びても、永遠に思い続けられるほどの愛――

 気づけば、中大兄皇子がそっと文姫の肩を抱いていた。
 
 大きな樹木のようだ。文姫は小さな鳥となって、あたたかな木の枝に止まる。長い旅の疲れが押し寄せ、文姫は目を閉じた。
 中大兄皇子の衣からは木漏れ日の香りがした。ずっと、ずっと包まれていたい。
 
 いつの間にか池の炬火は消えている。人のけはいは無く、虫の音だけがかすかに聞こえる。
 花びらが重なるように絹衣が落ちた。
 中大兄皇子の肩越しに、煌々とした白い月が見える。

 ――額田王、あなたは幸せな女だ。

 茫とする月の中に現れた額田王の姿は、天女のように美しい女だった。


 第10話へ続く


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