風を待つ<第6話>湯沐邑の夜
結局、入内の日まで夫の消息はつかめなかった。
湯沐邑の離れに、小さな宮がある。その奥へと通された文姫は、沐浴をすすめられた。沐浴後、大海人皇子が宮へと足を運んでくるそうだ。
そこで酒の席に呼ばれたのち、夜を共にするようである。
新羅では、月城の後宮にすべての妃妾が住まわされていた。倭国では妻ひとりひとりに宮が与えられるようだ。
――ぜいたくなことよ。
文姫は宮を見渡す。小さな宮であったが、飛鳥宮とちがい、森に囲まれていてとても涼しい。鳥のさえずりが室内にも聞こえてくる。
室に並べられた鏡には、異国の衣を身にまとった自分の姿がうつっている。束髪であるものの、髪をおろしたままで過ごした経験がなく、どうにも不快だった。寝髪のままでいるような恥ずかしさがある。首の後ろが汗ばんでいた。
――この私が、采女の身代わりとはな……
額田王という娘は、もともと皇祖母尊の寵愛する采女であったらしい。美貌で歌がうまく、大海人皇子に見そめられて寵愛を受けた。だが、病のため亡くなったそうだ。
そこまでの情報は得たものの、文姫には大海人皇子の気持ちが理解できない。
――寵姫など、代わりはいくらでもいるだろう。
一人の美しい娘を失い、娘への愛を忘れられないからといって、酷似した女を妻に迎えたいと思うものだろうか。
――私にはわからない。
夫が死んだとしても、夫によく似た男と結婚したいとは思わない。金春秋とて同じであろう。文姫が死んでも、文姫と似た女を欲するとは思えない。
清らかな風にあたっていると、少し冷静になれた。
このような展開をだれが予想したであろうか。文姫はふいに可笑しくなって、くっくっと腹を抱えて笑った。
後ろに控えていた采女たちが訝しげに「いかがなされた」と問う。
――大海人皇子は、女に溺れるまぬけな男だろう。
中大兄皇子と大海人皇子、どちらが倭王となるのか不明であったが、もし大海人皇子が倭王になれば――と文姫は考えた。
求愛しつづけた女の代わりに、新羅の妃を迎えて喜ぶような皇子であれば、まともな倭王となれるはずもない。
――大海人皇子を使って、夫を助けられるかもしれない。
文姫は前向きに考えて、沐浴をした。
沐浴にまで采女がぴったりとついてくる。文姫はかまわずに、采女の前に美体を晒していた。
文姫の手足は長い。肌はなめらかに水をはじく。腹はひきしまり、乳房はぴんと張っている。三人の子を産んだ身体とはだれも思わぬであろう。采女たちは文姫の美体に目を奪われていた。
おとなしく額田王の代用品となるのも良いかもしれない。大海人皇子がおのれに惚れ込めば、倭国での文姫の立場は寵姫となり、いまよりも優位になるだろう。
――見ておれ、皇祖母尊め。
慎重にしなければならない。皇祖母尊を怒らせれば、金春秋を殺すかもしれない。金春秋を倭国で客死させるわけにはいかない。
金春秋は、たやすく捕斬されるような男ではない。かれは高句麗に赴いたときも、人質として拘束されたことがある。それでも数ヶ月で解放された。時をかせげば、かならず自力で倭国から脱出するだろう。
夫を新羅へ帰し、なんとか兄に倭国の状況を伝えたい。そのための時をかせぐために、しばらくは額田王の代用として愛されるふりをするのもよい、と文姫は考えた。
夕暮れになり、采女の動きがそわそわとしはじめる。どうやら、大海人皇子が到着したようである。
「こちらへ――」
采女に導かれて、広い板間の部屋に入った。隅には魚油の灯りがともされている。奥には寝台があり、絹布が敷かれた牀、小さな木枕が目に入った。
大海人皇子を待っていると、さすがに指先がふるえてくる。
ふわりと帷が動いた。
夕闇に染まる部屋に、大海人皇子と思われる若い男が入ってきた。采女たちが影のように消えてゆく。
「――額田王」
大海人皇子がふるえる声で言った。
「まことによく似ておる……」
甘くせつない声だ。こんな男の声を聞いたことがなかった。文姫は顔を上げられず、ふるえる指先を押さえつける。
「なにゆえ、そなたは私の前から去った……なぜ死んでしまったのか」
狂おしい声で囁き、瑠璃玉に触れるかのように、文姫の髪を撫でる。その指が文姫の頬を愛しむように、柔らかく動いてゆく。細く長い指であった。夫の骨ばった指とは違う。
髪がはらりと肩から落ちた。結い上げていない髪の動きに、文姫がわずかに目を動かした、そのときだった。
「――ちがう」
大海人皇子の目が怒りに変わっている。
「やはり、そなたはちがう」
「おまえは額田王ではない。いったい何者だ。妖の類か」
端正な顔立ちが、緋色の袍が文姫ににじりよった。燭台の灯が揺らぐ。橙色に照らされた目はあきらかに赫怒している。
「世子嬪文姫――ご存知のはず」
姓名を開示した瞬間、文姫の心に新羅王族としての誇りがよみがえった。いっときでも、采女の代用としてこの男に愛されようしたことを恥じた。
「我が父は金官伽耶国王の世孫金舒玄、夫は真智王世孫の金春秋にございます。もう一度申し上げますが、私は額田王などではないことをご存じのはずです」
文姫は、中大兄皇子に額衝くような身分ではない。もはや平伏する気分にもなれなかった。
「……新羅の妃」
大海人皇子はまだ夢か現かわからぬといった目で、文姫を悲しそうに見つめている。
「皇祖母尊は、なにゆえ私に新羅の妃などを……」
大海人皇子は文姫を熱い目で見たまま、手を掴んだ。ぐいと文姫を引き寄せ、さらに顔を近づけた。文姫の顔を嘗めるように凝視する。
「額田王に似て美しい女だというから、あなたを迎え入れたのです。しかし……瓜二つだ」
冷たい指先が文姫の頬に触れた。そのまま、顎へ、首筋へとおりてゆく。まるで、刃をつきつけるように。
大海人は文姫の首を掴んだ。そのまま締め殺さんばかりに、手に力を込める。文姫は指から逃げるように、顎をのけぞらせた。
「これほどまでに似た女を送られて、私が喜ぶとでも思ったか。かえって悲しみが増したわ……妖め!」
――殺される!
身の危険を感じて、文姫は思い切り大海人皇子を叩いた。下顎に当たり、大海人皇子は呻く。皇子の口の中から血があふれた。舌を噛んだのだろう。
「おのれ」大海人皇子は腰の剣に手をかけた。奥に控えていた采女たちが、ひっと悲鳴をあげる。
「斬ってみよ」
文姫は大海人皇子を睨み上げた。
「殺してみよ。我が夫と新羅女王が、倭国などひねりつぶしてくれる!」
叫びながら、夫の笑顔を思い出していた。早く助けに来てほしい、その一心で叫んだ。夫のことなどこれまで頼りにしたこともないのに、夫に無性に会いたかった。
大海人皇子の鋭い眼光にのまれぬよう、ぎっと睨みつける。
長い沈黙のあと、大海人皇子がふっと息を吐いた。
「新羅の妃、非礼を許せ」
大海人皇子は肩を落とし、文姫から目をそらした。
「あなたは位の高い嬪のようだ。妾のひとりかと思うておりました。あなたのような妃が、なぜ、その――皇祖母尊の言いなりに」
大海人皇子の目には、もう殺気は失われている。むしろ憐れむような目で文姫に問いかけている。文姫は乱れた衣をととのえると、姿勢を正して座った。
「皇祖母尊は、我が夫を捕縛し、人質にされました」
「なに」
大海人皇子の驚く声は、ほとんど声にならなかった。
「なんということをなさるのか、母上様は――」
深く嘆息し、大海人皇子はうなだれる。
「夫を解放していただくようお願い申し上げます。新羅の王子に危害を加えたとなれば、倭国と新羅の国交にも影響が出るでしょう」
「そうでしょうね」
大海人皇子は嘆息するだけで、動く気はないようだ。
――この皇子こそ、皇祖母尊の言いなりではないか。
思ったとおり、大海人皇子は倭王の器ではない。だが、金春秋を解放させるには、皇子の力を借りるしか手段がない。
「皇子、私がなにゆえ、あなたさまのなぐさみものになろうとしておるか、わかりますか」
「……はあ」
大海人皇子は憮然として顔を上げる。
「私は、倭王として相応しい皇子をこの目で見極めようと思うたのです」
文姫は毅然として言い放つ。
「私は倭王の妻となる。倭王の子を産み、新羅と倭国の結びつきを深めるために。そのために新羅から来たのです。あなたは、倭王となる皇子ですか? それとも――中大兄皇子にひれ伏す皇子ですか」
大海人皇子は驚いた。珍しいものでも見るように、文姫を見つめたあと、少し怒ったように言った。
「私は中大兄皇子に屈したりはしない」
大海人皇子は、すっと立ち上がると、闇に控えていた采女に命じた。
「明日の朝、飛鳥宮へ参る」
大海人皇子は音もなく退室した。それきり戻ってはこなかった。文姫は寝所に取り残された。身体の震えが止まらなかった。
第7話へ続く
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