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風を待つ<第8話>近江大津宮

 中臣鎌子に促されるまま、文姫ムニ湯沐邑とうもくゆうを脱出することにした。不本意ではあるが、大海人皇子に冷たく追い払われた以上、それしか選択肢はない。

 午を過ぎた頃、迎えの輿がやって来た。護衛の兵は中臣鎌子の私兵であろうか。文姫が輿へ乗ると、ゆっくりと動き始めた。

 倭国の小さな輿にも少し慣れた。倭国の衣裳は新羅のチマほど広がらぬので、片胡座では座りにくい。膝を曲げて端座したほうが、狭い輿の中では安定する。

 着のみ着のままに湯沐邑を出てきたため、髪の乱れが気になった。おろし髪だけはどうにも慣れそうにない。きつく結いあげ、簪《かんざし》をさしたかった。

 輿にかけられた簾の隙間から、中臣鎌子の輿が見える。
 ――あの男を信用してもよかったのだろうか。
 中臣鎌子を頼るしか方法がなかったとはいえ、最初の印象が悪く、どうにも好きになれなかった。
 
 中臣鎌子とはどういう男か――
 これまでの倭国は皇祖母尊すめみおやのみこと(六四五年に譲位して皇極天皇)と、大臣の蘇我氏が政権を握っていた。蘇我氏は自分の意のままにならぬ皇子はことごとく殺し、あるいは僻地へと追放していたという。

 そこへ、中大兄皇子と中臣鎌子が決起し、謀反を起こした。
 女帝の目の前で、蘇我氏を誅殺したのだ。
 そのとき倭国の女帝であった皇祖母尊は、中大兄皇子によって退位に追い込まれた。

 だが、中大兄皇子が倭王に即位するのかと思いきや、そうはならなかった。
 なぜなのか、文姫には理解できない不可解な部分である。

 不明な点はあるものの、倭国の派閥は「皇祖母尊」対「中大兄皇子・中臣鎌子」であることは間違いない。
 であれば、金春秋の解放のために動いてくれるのは、中大兄皇子しかいない。
 目前にいる中臣鎌子は、後に乙巳の変と呼ばれる政変を扶翼した内臣だ。この男こそ、中大兄皇子の右腕なのだ。

 ならば、この男のほかに誰を頼れるだろう。

 恐ろしい目つきをした男だが、話してみると意外と優しいところもある。

 ――この男なら信用してもよいのかも。

 文姫がぐるぐると思考しているうちに、近江大津宮へ到着した。

 近江大津宮は淡海(琵琶湖)の近くに建てられている。
 ざわめく文姫の心とは対照に、淡海の波はおだかやである。淡海の表面は空を写す鏡のようで、きらきらとした光を放っていた。

 部屋にとおされ、しばらく待つ。一刻の時が一年に感じられるほどに長かった。

 日没前、文姫の部屋を訪れたのは、中臣鎌子だけだった。
「お待たせして申し訳ございませぬ」
「ご苦労であった。……で、夫は」

 鎌子はうつむいた。
 
 まさか。

 ここまで来て、会えぬというのか。
 
 文姫の胸はどくどくと高ぶる。鎌子の口が開き、謝罪の言葉がもれる。申し訳ございませぬ、世子嬪におかれましては、遠方よりご足労をお願いいたし――

「謝罪はよい! 夫になぜ会えぬ」
 
 前置きは要らぬ、理由を申せと文姫は叫んでいた。おのれでも見苦しいほどに声を荒げ、立ち上がり、足を踏み鳴らし、花瓶を中臣鎌子に投げつけていた。

「何をする――」
 さすがに驚いた鎌子は、大声で叫んだ。濡れた衣冠を正し、恐ろしい目で文姫を睨みつけた。

「文姫さま、文姫さま。どうか落ち着いてください」
 侍女たちが泣きながら文姫を押さえつけた。

「おまえたち……刀子とうすをこれへ持て」

 文姫は肩で息をしながら、侍女に護身用の剣を持ってくるように命じた。
「文姫さま……なにをなさいます」
「決まっておる。これ以上の屈辱には耐えられぬ。私はここで死ぬ」
「文姫さま!」

 文姫は中臣鎌子の前に立つと、詰め寄るように言った。
「やはり近江大津宮には夫はいなかった。私を謀ったな。捕えられて会えぬのか、あるいはすでに殺されておったか! 答えよ」

 中臣鎌子は静かに顔を上げた。
「……金氏は昨夜、新羅へお帰りになったということです」

「なんですって?」

「申し訳ございませぬ。あと一日早ければ、間に合いましたものを」
 中臣鎌子は固い表情をして、感情のこもらぬ声で言った。

「夫は……私にひとこともなく、新羅へ帰ったと……」

「新羅に一大事があったのです。金氏は、あなたのことを頼むと言って出航されたそうです。あなたを捨てていかれたわけではありません」

「一大事とは」
 文姫は動揺をおさえて、中臣鎌子ににじり寄る。
「ほんとうは、あなたも金春秋の生死を知らぬのでしょう。それらしい虚言で私をごまかせるとでも思うたか! 夫はやはり皇祖母尊の手中にあるのでしょう」
 
 ちがいます、という中臣鎌子の声は、もう文姫の耳には入らなかった。

 ――ああ、兄上様。
 情けないほどに力が抜けてゆく。咄嗟に思い浮かべたのは、兄の悲しむ表情だった。おまえにしか頼めぬ、と苦しげに吐いた庾信ユシンの顔。

 ――申し訳ありませぬ、兄上様。同盟は失敗です。私は倭国で死にます。

 せめて夫の近くで死にたかった。倭国でひとり死ぬのはあまりにも悲しい。
「私を夫のいる場所へ連れていってくれませぬか。せめて夫の顔を見て死にたい。それともすでに海へ沈められたのですか」

「いいえ、金氏は殺されてなどおりませぬ。新羅からの使者とともに帰国されたのですよ。どうか信じていただけませぬか」
「なにを信じろというのです。新羅になにがあったのです。夫はなぜ、私の婚姻を取り付けぬままに放擲《ほうてき》してゆくのです、それほどまでに大事があったのですか……それとも……」

 ――あなたまで、私を要らぬというのですか。

 金春秋とは政略結婚であったから、なんの愛情もないというのか。おのれの妃が大海人皇子の宮へ送られているとも知らず、放擲して帰国するのか……

「少し落ち着かれたら、臣の知る限りの事情をお話しいたします」
 中臣鎌子の言葉に、文姫はぶるぶると首を振る。
「いいえ、事情があるならいますぐ教えなさい!」
「いまのあなたにお話しすればますます取り乱すだけでしょう」
 嘆息し、中臣鎌子は眉を下げた。

「私は取り乱してなどおりません! どのようなことも覚悟の上。だから知っていることはすべて教えてくれ……」

 すがるように足元へくず折れた。金春秋がおのれを捨ててゆく、確固たる理由が欲しかった。そうでなければ文姫の矜持きょうじはぼろぼろに崩れ、刀子で胸を貫くよりも先に、屈辱で悶え死ぬであろう。

「たのむ……教えてくれ」
「世子嬪……」
 中臣鎌子が、困り果てているのがわかる。泣き伏せた床に、鎌子の黒い表袴うえのはかまが動いている。なんとか文姫の顔を上げさせようと、抱き起そうか、触れてもよいものかと迷っているのだった。
 
 そのとき、ふと――光が近づいてきた。

 光が歩いている。
 柔らかな光が、こちらへ向かってくる。

「おいおい、泣き叫ぶ声が外にまで聞こえておるぞ」

 光と思ったものは、中大兄皇子その人だった。
 すでに日は暮れて室内は昏い。周囲を煌々と照らす光のように、中大兄皇子は現れた。

「皇子……」

 中臣鎌子が部屋の隅で平伏した。中大兄皇子が入室したとたんに、よどんだ気が一転したようだ。

 中大兄皇子は、うなだれる中臣鎌子を一瞥し、

「これほど困惑する鎌子をはじめて見た。鎌子を困らせるとは、たいした妃だな」
 はははと軽快に笑うのだった。

 ――このひとが、中大兄皇子か。

 中大兄皇子とは、酒宴の日に一度会っている。だが文姫には、あの日の中大兄皇子と同じ人物とは思えなかった。表情は明るく、人を探る目つきはしていない。まっすぐに文姫を見つめ、如来像のような微笑をした。

「鎌子、世子嬪にはおれから話してやろう。下がってよいぞ」
「は」

 呼吸をととのえた文姫は、急いて問う。
「夫は生きているのでしょうね? すでに殺したのではありますまいか」

 中大兄皇子はふわりと笑って、文姫の訴えをはぐらかした。
 立ち居振る舞いは実に美しい。身体つきは細いが、強靭さを感じる。その声、その表情、その姿を見ているだけで、文姫はふしぎと安堵で気が和らいでいた。

「今宵は月がきれいだ。月見酒でも呑もう。酒はきらいか?」
「月見……酒など要りませぬ。夫がどうなったのかと問うておるのです!」

 中大兄皇子はすばやく目を左右に動かしてから、無言で文姫を見つめる。

 気づけば采女や舎人たちが部屋の外に控えており、不安と好奇の入り混じった目を文姫に向けているのだった。
 中大兄皇子は文姫を庭へと招くことで、この場を鎮めようとしているのだ。
 諷意ふういを察して、文姫ははっとした。
 羞恥で顔が熱くなる。
 おのれの狼狽を思い出し、恥ずかしさで全身から汗が出た。

「さ、こちらへ」
 中大兄皇子は月の庭へと文姫をいざなった。その背を追いかける前に、文姫はちらりと中臣鎌子を見た。
 
 中臣鎌子はいつもどおりに、無表情で部屋の隅で控えている。絁《あしぎぬ》の冠からは、文姫がひっかけた花瓶の水がしたたりおちていた。

 ――取り乱してすまなかった。
 詫びの言葉は喉元でとまった。王族が臣下に詫びるなどありえぬことだった。
 心の中で鎌子に詫びた。小さな胸の痛みをおぼえた。
 だが、いまは中大兄皇子と話をせねばならない。文姫は裳裾もすそをひきずりながら、中大兄皇子の背を追った。

     *

 丸い月が煌々としている。 
 采女たちが無駄のない動きで月見酒の用意をしていた。酒宴といっても、釣殿に小さな卓を置き、二人がようやく座れるだけの場が設けられた。躊躇しながらも、文姫は席についた。

 庭に作られた池には、月が照らし出されている。朱色に塗られた欄干の橋がとても美しかった。池の周囲にはちらちらと炬火の光が揺れている。

 中大兄皇子と二人、文姫は気まずい沈黙に耐えている。采女が熱い湯を持ってきた。倭国には茶でもてなすという習慣はないらしい。湯を口に含むと、かすかに甘かった。

「蜂蜜ですよ。気分がよくなるでしょう」
 中大兄皇子が説明する。
「ええ――とても」
 文姫がゆっくりと蜂蜜入りの湯を飲むのを見て、中大兄皇子はふっと笑った。

「それにしても、よく似ておられますな」
「そうですか」文姫は苦笑する。額田王のことだろう。
 
 文姫は額田王には会ったことがない。似ている、と言われても、答えようがない。

「初めてお目にかかったときは、驚きのあまり叫びそうでしたよ。ですが、よもや皇祖母尊がこのような暴挙に出るとは……予見できず申し訳ございませぬ」
 中大兄皇子の謝罪の言葉は、明瞭としている。

 ようやく、正式に謝罪された。
 文姫は少しだけ胸のつかえが下りた。
 このあとに続く金春秋についての話も、明るいものではないか。文姫は少し期待する。

「あなたは高貴な妃ですね。采女のような身分の娘とはちがう」
「はい」文姫ははっきりと答える。

「では、過酷な話にも耐えられますな? もとより倭国に来た段階で、すでに覚悟はできておるのでしょう」
「……むろんです」
 文姫はごくりと息を呑む。蜂蜜湯の器を持つ手が震えた。

「金氏は新羅へ帰られた。傷痍きずひとつなく、無事に倭国を出航された。鎌子の申すとおりです」
「どうして……」

 生きているのならばよかった。だが、なぜ? という疑問が次にわいてくる。なぜ文姫を置き去りに、黙って帰国したのか。

「金氏が帰国されたのは、金庾信キムユシンという大臣からの書簡が届けられたためです」
「……兄上からの?」

第9話へ続く


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