我が家には同居人(仮)がいる
僕が住んでいる家は神奈川県にある。つまり横浜ではない場所にある。
田舎なのか、少し歩けば田んぼが広がり、家のすぐ隣には小さな川も流れている。
最寄り駅までは徒歩15分と聞いていたが、実際は20分はかかる。坂道もあるので車を持っていない僕には少し不便な立地だ。
そんな家にもいいところはある。メゾネットタイプというところだ。二階建てで間取りは3LDK。風呂・トイレ別。全部屋フローリングでBBQができそうなくらいの庭まである。
そしてこの家が月6万で住めるのだ。破格である。
そんなメゾネットタイプの我が家には同居人がいる。
彼女の名前を僕は知らない。彼女の口から名前を聞いたことはないし、僕から聞くこともなかった。特に大きな問題ではない。
3ヶ月前に一人暮らしを始めた僕は希望に満ち溢れていた。
お風呂も好きなときに入れるし、夜遅くに帰るときも夜ご飯の有無で連絡をしなくていいし、酔って帰って玄関で寝てもいい。まさに"自由"を手に入れたのだ。
もちろん何かを手に入れるということは何かを失うということでもある。
実家にいるときは脱ぎ捨てた服はなぜか次の日には綺麗にたたまれて枕元に置かれていたし、朝と夜になるとテーブルの上にご飯ができあがっていた。昼間は外に出かけていることがほとんどだったので知らなかったが、実はお昼にもご飯ができていたらしい。
そんな素晴らしいシステムがどうやら一人暮らしには備え付けられていないらしく、自分でご飯を作り、洗濯機を回して、干して、たたまなければならない。
そんな不便さはあったが、手に入れた"自由"に比べれば安い代償だった。
彼女と同居を始めたのはそこから1ヶ月後だ。
早朝からフルアクセルで鳴くセミに起こされた私はいつもどおり顔を洗うべく一階に降りた。
そのとき彼女はキッチンに立っていた。
不思議とその存在に疑問はなく、その風景を受け入れている自分もいた。
なぜか「おはよう」とあくび混じりの挨拶をした僕に、彼女は笑顔を返した。その透き通った笑顔だけで「おはよう」と返してくれていることが分かった。
彼女はキッチンに立っていたが朝ごはんを作っていたというわけではないらしい。
私は洗面所に向かい顔を洗って、キッチンに戻りいつもどおり朝ごはんを作り始めた。
その日の朝食はウィンナー、目玉焼き、サラダと食パンというまさに「The朝食」といったメニューだった。
フライパンでウィンナーを焼き、空いたスペースで目玉焼きをやく。レタスを数枚むしり、トマトを8当分にして4切れだけ取り、残りはラップで包んで冷蔵へ。よく僕が作る定番のメニューなので小馴れたものだ。
唯一、いつもと違ったのが盛り付けだ。いつもならフライパンを傾けて、雑にウィンナーと目玉焼をお皿に雪崩れさせるのだが、その日はフライ返しで目玉焼きをお皿にそっと乗せ、ウィンナーは箸で取り、向きを揃えてお皿に並べた。
サラダもレタスは一口大になるように、トマトときゅうりもオシャレに細かく切ってお皿に盛った。
そのお皿をリビングのテーブルに置き、外が見えるお決まりの席に座る。
そうすると彼女が正面の席に座っていた。我が家で組み立ててから一度も座られたことのない椅子が始めてその意味を持った瞬間だ。
彼女は先ほどと同じ透き通った笑顔でこちらをみている。
いつもならスマホで動画でも観ながら食べているが、人に見られていてはそんなことはできない。
両手を合わせて「いただきます」とつぶやき箸を手に取った。
黙々とご飯を食べる。どこか食べ方も綺麗になり、曲がっていた背筋は天井から吊るされているんじゃないかというくらい真っ直ぐだった。
食事が終わり、食器を洗う。いつもより丁寧にお皿を拭き、棚に戻す。
洗面所に向かい歯を磨く。心なしかいつもより時間をかけていた。しっかり一本ずつ磨く。洗濯機のスイッチを入れて、洗面所を出ようとしたときふと鏡をみた。そこにはなんとも冴えない男が立っていた。ヒゲがうっすら伸びていて、表情は曇っていた。
在宅勤務になってから人に会うことが少なくなり、ヒゲも一週間に一回しか剃らなくなっていた。
急いでシェービングクリームを手に取り、顔に乗せてヒゲを剃る。いつもより鏡に近づいて細かいところまで気を付けて剃った。
それが終わって鏡を見上げる。顔は明るくなったが冴えない表情は未だ健在だ。
鏡の前で笑ってみる。頬と口角を上げ、目尻を垂らす。それを3秒間続ける。
疲れた。
いつのまにか表情の筋肉が落ちていたのだろうか。
そこから喜→怒→哀→楽と順番に表情を作っていく。
そんなことを繰り返していると隣にある洗濯機が「ピーッピーッ」と終わったことを知らせてきた。
服をかごに入れ、二階にあるベランダへ向かう。向かう途中、キッチンには笑顔で彼女が立っていた。
洗濯して湿ったTシャツをハンガーにかける。いつもならそのまま竿にかけるが、手のひらでシワを伸ばしてから竿にかける。他の服も肌着も丁寧に干していった。
すべて干し終わり一階に戻る。洗濯かごをおき、リビングの椅子に座りひと息つく。ふと部屋の隅が気になった。よくみると小さなホコリが溜まっていた。
掃除は一週間に一回。休日にやっていた。ワイヤレスの掃除機は15分しか稼働しないし3部屋もあるので、雑になっていたなと思い返す。
急いで掃除機を出し、リビングに掃除機をかけた。久しぶりの稼働で疲れたのか15分ほどで吸うのをやめてしまった。
掃除機を充電器に戻し、休日と同じくトイレの掃除もしてみた。
気づけば仕事開始の15分前。仕事用の部屋に行き、PCの電源を点ける。
デスクの隣をみると彼女がしゃがんでやはり透明な笑顔でこちらをみていた。
PCがまだ起動していないディスプレイに目を戻す。
そこにまた冴えない男がうっすら映っている。どうみても部屋着でしか使えないようなTシャツを着ている。きっとこいつのズボンは短パンのジャージだろう。
急いでクローゼットを空け、Yシャツを羽織り、スラックスを履いた。
仕事の部屋に戻る途中、ベッドの上でぐちゃぐちゃになったタオルケットも畳んでおいた。
部屋に戻り仕事を始める。どことなく僕の口角は上がっていたと思う。
気づけば彼女は部屋から立ち去っていた。
その日から彼女との同居生活が始まり、2ヶ月が経った。
気づけばいろいろと変わっている。
3つの部屋にはそれぞれ観葉植物が置かれ、花が植えられたプランターが庭に並んでいる。クローゼットの脇には全身が映る鏡が置かれ、家の中ではスリッパを履くようになった。もちろん彼女の分のスリッパも置かれている。
掃除は週課から日課になり、作る料理のバリエーションも増え、それにつられるように食器と洋服も増えた。
ある日、最近知り合った女性が我が家に遊びにくることになった。
知り合ったばかりの男の家に遊びに来る警戒心の低さを少しは自覚してほしい。と思いつつも我が家に上がる二番目の女性ということで気持ちは高揚し、迎えに行く足取りも軽かった。もしかしたらスキップをしていたかもしれない。
女性を連れ家に着き、我が家のドアを空ける。彼女のスリッパを女性へ差し出す。彼女には申し訳ないが今日この時間は裸足で生活してもらおう。
女性をリビングに通す。リビングを見回した女性から「部屋、綺麗だね。男の人の一人暮らしってもう少し汚いのを想像してたから凄く意外。」とお褒めの一言をいただいた。
そのあと女性は「他の部屋も見てみたい」というので、「食事の準備するから勝手に見て回っていいよ。」といい、僕は料理を始めた。
いつもどおり料理をお皿に盛り付け、最近買ったグラスに据え置きしている水出しの紅茶を注ぎテーブルに並べた。いつもどおりの光景だ。
女性はそれを見て感動したらしく「この盛り付けお店みたい!気合入ってる?」と顔を覗いてくる。
残念ながらいつもどおりだ。特に凝ったことはしていない。でも覗かせる顔は可愛いのでいただいておこう。
食事中、話が絶えなかった。女性とはなんでこんなにも話題が次々に出てくるのか。彼女のように無口な女性は珍しいのかもしれない。
食事を終え、おすすめの映画を1本観て、その日は終わった。
どうやら好印象を持ってもらえたようで次の予定も約束済みだ。
女性を駅まで送り、帰宅するとリビングに彼女が座っていた。まったく変わることのない透明な笑顔でこちらを観ている。
その彼女の正面に座り、僕は言う。
「いつも、ありがとう。」
2ヶ月間過ごして始めてかけた言葉だった。
彼女は変わらず透明な笑顔で微笑んでいる。
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