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いい中高、いい大学、いい会社に入るということ

別の記事で述べたように、私は都内有数の進学校出身である。現在、私はアラフォーの中年男性だが、少し前に行われた同窓会に参加した(有志による開催で、全学年の10%程度の参加率だった)。

当日参加していた同窓生たちは、皆、輝かしい経歴を誇っていた。医者、弁護士、官僚、大学教授、外資コンサル、外資投資銀行、超一流企業勤務など、まさに「勝ち組」の集まりであった。中には、外資系戦略コンサルタントや四大法律事務所のパートナーもおり、年収が億を超えている者もいたようだ。そんな中、私は一流とは言えない並の大手企業の管理職という、微妙な経歴であり、少し肩身の狭さを感じながらも、同窓の仲間たちとの旧交を温めた。

彼らは世間的には「勝ち組」と言えるだろうが、話していると、その自覚が彼ら自身にもあるようだった。また、彼らは自分たちが学生時代から努力して勉強した結果、世界の頂点に立つことができたと、心の底から信じているようだった。エリート界隈でしか通用しない内輪の会話を交わすことで、彼らは自分たちが特別であり、特別な世界で活躍していると再確認しているようだった。

残念ながら、私はそのエリート界隈に足を踏み入れることはなくここまで来てしまったので、彼らの会話に入ることができず、外から眺めるしかなかった。

彼らエリートたちの共通した特徴として、結婚が早く、漏れなく子供がいるということにも驚かされた。デフォルトで、子供は2人以上おり、都内にマイホームを持っているのである。全員が、まるで教科書に出てくるような典型的な理想の家庭を築いていた。そして、40歳前後になると、子供は中学受験に差し掛かる年頃であり、彼らは皆、自分と同じ「いい中高、いい大学、いい会社(職業)」に行かせたいと、子供の教育に非常に熱心だった。「熱心」とは聞こえは良いが、よく話を聞いてみると、子供が自分と同じ道を歩まなければ「負け組」になってしまうという強迫観念に囚われており、子供が自分とは異なる道を進むという発想は皆無のようだった。

そうした同窓生を見ていて思ったのは、彼らの経歴は確かに輝かしいが、それは決まったレールをひた走った結果であり、大きく道を外れても社会で成功しているような変わり種はいないということだった。そして「勝ち組」といえども、年収や資産が数十億円以上という突出した人物はおらず、こじんまりと綺麗に仕上がった人間ばかりだった。

彼らを批判しているように聞こえるかもしれないが、決してそういうわけではない。彼らは皆、学生時代から非常に優秀で、努力家でもあり、社会人になってからも身を削ってキャリアを築いてきたのだ。その努力、忍耐、献身には、平凡なキャリアを歩んできた私からすると、本当に頭が下がる思いがする。

私の場合、大学受験に失敗し、大学でもくすぶった結果、就職活動も思うようにいかず、早々にエリート街道から脱落し、平々凡々な庶民として社会人生活を送ってきた。しかし、そんな私にも一つだけ彼らにはないものがある。それは、社会人になってから地元の友人を通じてエリートでない人たちとの幅広い人脈を持つようになったことだ。地元の友人がきっかけとはいえ、インフルエンサー的な人と親しくなり、様々な職種や経歴の人々と付き合う機会を得た。中にはエリートのような人もいたが、大半はむしろその逆で、中高生の頃はやんちゃしていたり、かなり道を外していた人もいた。当然、高校の同窓会のメンバーが属する世界とは全く異なる世界であったが、私が勤めている会社も社員の大半が早慶以上の学歴であり、世間一般から見るとエリート集団だが、彼らとは全く違った世界であった。

社会人になってから、地元の友人を通じて出会ったのが、Xさんだった。彼は、高校時代は学業よりもバイクに夢中で、正直なところ当時の私から見れば、「道を外した」部類の人間だった。しかし、彼は20代後半に起業し、今では年商数億円を誇る中小企業の社長である。彼との出会いは、私にとって衝撃だった。学歴や名声とは無縁の彼が、自由な時間と高い収入を手に入れている一方で、エリートと呼ばれる私の同窓生たちは、常に忙殺され、心の余裕を失っているように見えた。この経験が、私の中で「エリートであること」の価値観を大きく揺さぶったのである。

Xさんとの出会いは、私にとって価値観を根底から覆す出来事だった。彼のように、学歴や名声に依存しない自由な生き方を実現している人々との出会いは、私に「エリートであること」に対する疑問を投げかけた。それまでの私は「いい中高、いい大学、いい会社」というレールに乗ることが勝ち組=金持ちになる唯一のルートだと信じ込んでいた。ところが、社会人になってから出会った人々の中には、所謂エリートとは別次元で稼いでいる人間が意外にも多かったのだ。彼らの多くは中小企業の経営者や自営業者であり、学歴は決して高くないが、年収1000~2000万円で勝ち組と言っているエリート達とは一桁も二桁も違う収入を得ていたのである。もちろん、こうした人々の数は多くはないが、私が想像していたよりもはるかに高い頻度で出会ったことから、私の「いい中高、いい大学、いい会社」という価値観はあっという間に崩れ去ってしまった。

そして、私は気づいてしまったのだ。冒頭で挙げた「医者、弁護士、官僚、大学教授、外資コンサル、外資投資銀行、超一流企業勤務」という輝かしい経歴を持つ人々は、結局のところ、労働者であり、雇われの身に過ぎないということに。

最近では、中学受験の競争が激化しており、小学校低学年から塾に通わせ、中学受験を突破するとすぐに東大合格を目指して塾通いを続けるのが一般化していると聞く。だが、彼らは一体何を目指しているのだろうか。確かに、医者や弁護士、一流企業という肩書にはブランド価値があり、魅力的に映るかもしれない。しかし、それを勝ち取ったところで年収はせいぜい2000~3000万円程度、出世した者であれば年収1億円に到達するかもしれないが、それでも中卒や高卒の経営者には到底及ばない。

幸いにも、エリートたちはエリート同士でクローズドな付き合いをしているため、彼らは自分たちよりも遥かに裕福な人間が存在することを知らずにいる。そして同窓会では、自分たちが世界の頂点に立っているかのように振る舞い、勝ち誇った顔をしているのだ。しかし、客観的に見れば、彼らは所詮「労働者」であり、「資本家」に利用されているに過ぎない。現代の労働者は、かつての奴隷階級に等しい存在であり、資本家に搾取される存在なのだ。

皆が競って「いい中高、いい大学、いい会社」を目指すのは、奴隷が競って「いい鎖」を手に入れようとすることと同じであり、実際には真の勝ち組を目指す競争に参加しているのではなく、奴隷階級の中でいかに「勝ち組の奴隷」になるかを目指す競争をさせられているに過ぎない。「医者、弁護士、官僚、大学教授、外資コンサル、外資投資銀行、超一流企業勤務」といった輝かしい経歴は、奴隷が手に入れられる「最高級の鎖」に過ぎない。この本質に気づずに最高級の鎖を得て喜んでいる彼らが、もし社会の真の仕組みを知ってしまったとしたら、この競争の無意味さにきっと愕然とすることだろう。

ただ、エリート層が「いい中高、いい大学、いい会社」に固執するのは、一種の自己確認でもあるのだろう。彼らは学生時代から成績が良く、それが彼らのアイデンティティを形成してきた。そのため、そのレールから外れることは、自分自身の価値が揺らぐことを意味する。だからこそ、彼らは必死にそのレールを走り続け、自分の子供にも同じ道を歩ませようとする。しかし、実際にはそのレールの外にも豊かな人生があり、むしろそこにこそ真の自由と成功があることに気づかないままでいるのだ。

結局、「いい中高、いい大学、いい会社」に入ることが勝ち組だという価値観は、一種の宗教であり、信仰に過ぎない。そして、この信仰が広まれば広まるほど、資本家にとっては都合が良いのだ。なぜなら、資本家にとって最も重要なのは、優秀な労働力であり、しっかりと教育を受け、喜んで奴隷になる優秀な人材が増えれば増えるほど、彼らの利益は増えるからだ。そして、恐ろしいことに、エリートに近い階層にいるほど、この事実を知らない者が多いのだ。これは何とも皮肉な話である。

もちろん、エリートの道を歩むことも一つの成功である。しかし、それが唯一の成功の形ではない。実際、私が出会ってきた多くの人々は、伝統的なレールから外れながらも、自分自身の道を切り開き、年収面ではエリートに及ばないかもしれないが、独自の成功を収めている者は多い。例えば、自営業やフリーランスとして自由な働き方を選んだ人々、あるいは地域に根ざした活動を通じて社会に貢献している人々だ。彼らは世間一般の「成功」の基準からは外れているかもしれないが、彼ら自身が納得し、満足している人生を送っている。

結局のところ、真の成功とは、自分が本当に望む生き方を見つけ、それを追求することではないだろうか。エリートという名のレールを走り続けることも一つの選択肢だが、その外には、さらに広い世界が広がっている。その世界を探求する勇気が、真の自由と充実をもたらすのだと、私は確信している。


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