「常識だ」では反論にならない
>「音を立てるのはマナー違反よ。外国の人に恥ずかしいわ」
と言う義母に対して記事では、
(A)「大丈夫ですよ。蕎麦を音を立ててすするのは今や世界の常識ですから」
と返すのが最適解としているが、「その根拠はどこにあるのよ」「何言ってんの音を立てないのが常識よ」等と言われたらおしまいである。人によって異なる常識やマナーを盾に反論材料しても、水掛け論になるのであまり意味がない。
弊サイトの内容を熟知した者なら、
(D)「お義母さん、感情自己責任論ってご存知ですか」
も選択肢になる。尤も、そこからどう話を展開するかは各人次第だが。
>もし外国人観光客が眉をひそめたとしても、それは向こうが自分たちの価値観を押しつけているだけなので、気にする必要はありません。
確かに気にする必要はないが、その論拠は「不快感は自業自得だから」だ。
また、眉を顰めるだけでは「押し付け」にはならない。
そもそも「押し付け」と感じている時点で既に「気にしている」のだから、「気にする必要はない」は助言として頼りない。これが「気にするな」で済むなら、冒頭の義母の意見も「気にするな」で済む。
以下、弊サイトより抜粋。
どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。
自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。
感情を含むあらゆる体験の根本原因は体験者自身の固定観念自分ルール思い込み先入観。それが変わらない限り似た体験を繰り返す。
肉体的苦痛の原因は加害者でも、精神的苦痛の原因は被害者本人の固定観念。複数ある個別の因果を混同する限り苦悩は止まない。
感情自己責任論(解釈の自由と責任)~学校では教えない合理主義哲学~ http://kanjo.g1.xrea.com/