無視される「解釈の自由」

上記ページでは「表現」という言葉は72箇所ヒットするが、「解釈」は一切使われてない。
21世紀も第1四半期が過ぎようとしている今も尚、「解釈の自由にも責任が伴う」という発想が世に浸透していない、という現実🙄


以下、弊サイトより抜粋。

どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。

反差別の裏には差別心が潜む。例えば異属性間の収入格差を論うのは「高給者ほど偉い尊い」等の職業差別拝金主義の表れ。
同じ人間なのだから属性の区別比較も必要ない。下駄履かせは逆差別で偽善。追求すべきは結果平等ではなく機会平等。

差別用語の規制は「その用語で差別可能」を却って固定化強化。言葉狩り表現狩り臭い物に蓋は問題を長期化させるだけ。
差別を批判する人ほど差別している5 note.com/kanjoj/n/n1a0fcd14f9b8

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