「戦わなければ殺される」という思い込み

正しくは「逃げなければ殺される」である。戦えば却って殺される。抵抗すればするほど人命は失われる。武器を帯同し相手を殺そうと意図する者は、同様な相手から殺されても文句は言えない。
以下、引用のうち後ろの2つは岩下明裕・北海道大教授の発言。

>ロシアのウクライナ侵攻開始後、両国へ即時停戦を呼びかけた和田春樹東京大名誉教授ら日本のベテラン歴史学研究者らに、国際政治や安全保障の中堅・若手研究者らから「双方を同列に扱うな」などと批判の声が上がりました。

ミャンマー軍に火炎瓶を投げるミャンマー市民と同じで、暴力に暴力で対抗するのも暴力、テロに対してテロで応対するのもテロ。
既に露ウ両者が共に殴り合っている状態では、最早「先に手を出したのはどちらか」は論点ではないし、片方だけ止めようとしても意味がない。同列に扱うことを批判する者は、善悪二元論に嵌って本質が見えていない。

>ロシアとウクライナ双方に停戦を呼びかけ、ウクライナの抵抗を否定すると受け取られかねない表現は疑問でした。

ウクライナの抵抗も戦争の一部。それを否定することはロシアの侵略の肯定を意味しない。疑問に感じるのは「抵抗否定は侵略肯定」「戦う以外に事態打開の手段はない」「国土は人命よりも尊い」等と思い込んでいる証拠。事前の準備や覚悟や思慮や慧眼の不足による、平和ボケの一症状。

>市民団体が中国やインドという国家に和平の仲介を求めるのもずれて感じました。特に、国内での人権抑圧が著しい中国政府に呼びかけたのは不思議です。

仮に領土問題で争う中印に和平仲介をやらせれば、それだけ両国内の交渉経験が増え人権概念も熟し民度が高まるので、長期的には両国間の平和構築に繋がる。呼びかけに応じない事は想定の上で、敢えての提案だろう。こうした意図を汲めないのも、平和ボケの一症状だ。


命を奪い合うことなく問題解決する手段として「非暴力抵抗」という概念がある。物理的な暴力や武力を使わずに、それ以外の政治的・経済的・社会的なあらゆる手段、例えばストライキやボイコット・サボタージュなどを駆使して侵略者や独裁政権に抵抗する方法だ。
これを理解不能と感じるのは、短気で人命軽視で問題解決力が低い人だけである。
近い将来、こうした選択肢が「侵略された場合に国民が為すべき最適解」としてスタンダードとなるだろう。尤も、これを理解し準備し実践できる国民が多い国家は、そもそも侵略されるような口実を相手に与えないのだろうけども。

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