人権屋ならではの無意識の偏見
>「女性ならでは」の何がいけないのでしょう?
「良いではないか」の反語か、と思ったらさにあらず🙄残念だ。こうした褒め言葉すら差別的に解釈し言葉狩りするのは一種の倒錯なのだが、主張者自身にその自覚が全くないのが闇深い。
>すでに多くの指摘があるように、首相の言葉は、たとえ全く悪気がなくても女性に対する無意識の偏見を露呈し、助長する発言です。
無意識の偏見を露呈・助長しているのは「発言者」ではなく「解釈者自身」である(論拠詳細は弊サイトをご参照)。
>女性閣僚を増やすのは、人口比と同じように女性の閣僚の割合と男性の閣僚の割合を同じにするために必要なことです。感性を生かすためではなく、人権の観点から不可欠なのです。
まず、「大臣ポストに就く権利」は人権ではないので人権問題として論うのは仰々しい。人権はもっと深刻なものである。
それに能力ある女性が女性という理由だけで重要ポストから締め出されているなら、逆に言えば、能力のない男性が男性という理由だけで無理矢理、能力以上のポストを任されているということ。これは寧ろ、過剰労働を強いられている男性の人権問題と見る方が正しい。実際、過大な社会的責任を負わされた男性が如何に不幸かは、その自殺率・犯罪率の高さに表れている。
だが、小島氏の主張にはこうした観点がない。自分たち女性のことしか考えていないのだ。
>国際比較で、日本は国会議員をはじめとした社会の意思決定層に占める女性の割合が極端に低いことが問題視されています。
もし意思決定層の性差を無くす目的が「女性の幸福度向上」なら、寧ろもっと男性の意思決定層を増やした方が良いだろう。何故なら各種統計が示しているように、現代社会では概して男性の方が女性より不幸なのだから。
それに社会の意思決定を重視するなら、個々人の意思を無視してはいけない。仮に国会議員になりたい人の男女比が9:1なら、議員数もそうあるべきだ。人口比のみを根拠に安直に「なりたい度が低い人」を無理に議員にさせ「なりたい度が高い人」を排除すれば、却って不幸な人が増える。
だが、小島氏の主張にはこうした観点がない。彼女が「女性の幸福より男性(或いは自分)の幸福」を追求しているのであれば、筋が通るが。
自身の矛盾に気付かない人権屋もまた、低水準教育の犠牲者。
義務教育で哲学や心理学を教えないから、先見力協調性適応力自制心倫理観論理力EQ各種リテラシー問題解決力等が低くなる。
以下、弊サイトより抜粋。
どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。
自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。
反差別の裏には差別心が潜む。例えば異属性間の収入格差を論うのは「高給者ほど偉い尊い」等の職業差別拝金主義の表れ。
同じ人間なのだから属性の区別比較も必要ない。下駄履かせは逆差別で偽善。追求すべきは結果平等ではなく機会平等。
一部個人個性と全部集団属性を同一視する「森を見て木を見ず」やその逆は差別の一大特徴。排除の論理では問題解決しない。
差別用語の規制は「その用語で差別可能」を却って固定化強化。言葉狩り表現狩り臭い物に蓋は問題を長期化させるだけ。
差別を批判する人ほど差別している5 note.com/kanjoj/n/n1a0fcd14f9b8
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