冒涜・蔑視・侮辱も表現・言論の自由
他者の身体的自由を侵害しない限り、差別や罵倒・中傷も言論自由の範疇。無教養者・精神異常者・人格障害者にも言論の自由はある。彼らの表現の自由を奪っても、溜まった鬱憤を別のどこかで発散させるだけなので問題解決にはならない。
>主催者が公開した映像には、足を大きく広げた何体もの「空気人形」が椅子の上に展示されている様子が映っている。チマ・チョゴリを着せていることから「平和の少女像」を模したものであることがわかる。
子供が作ったような雑で杜撰な手作り人形で全く見る価値はないが、少女像に似ているだけでは関連性があるとは言えない。例えば、単に「民族衣装を着た複数のダッチワイフをネタに自慰行為をしたい、という展示品製作者の日頃の性的欲求不満の表れ」と解釈する事も可能だ。
>「歴史に対する冒涜だ」
上述したように解釈すれば、冒涜されるのは寧ろ展示品製作者自身となる。そのことは、仮に少女像を茶化したものだとしても変わらない。彼らの浅ましい史観を投影しているに過ぎないからだ。
歴史は、一部の人格障害者の御都合主義的な妄想によって冒涜されるほど軟なものではない。その程度で冒涜されるなら、そう思う人自身の持つ歴史観が脆い証拠である。
>表現の自由には「責任」がともなう
解釈の自由にも「責任」が伴う。他者に不自由を与えるから自らも不自由を得る。己の解釈の結果(不満・不快等)を他者のせいにするのは筋違い。
以下、弊サイトより抜粋、チョイ編集。
差別・偏見・ヘイト・蔑視の目的は劣等感・情緒不安の払拭。共感力・適応力・自制心・自己肯定感・問題解決力の低い無教養者の自己防衛。
偏見・差別を持つだけなら内心・思想・信条・宗教の自由、表明するだけなら言論の自由。人格的・精神的未熟者にも表現の自由はある。
誹謗や悪口は発言者の自己投影。心を病んだ不幸者の妄言を真に受けるのは愚の骨頂。言葉狩り・表現狩りでは問題は解決しない。
ヘイトスピーチも精神を病んだ人格障害者の所業。病気が言わせる妄動を真に受けてはいけない。精神的未熟者に必要なのは隔離・治療・教育。
低水準教育の犠牲者に必要なのは憎しみ(情報遮断・処罰・排除・放置)ではなく愛(情報共有・高水準教育・精神治療・救済)。
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