移動する演劇-参列と覗き見【夢ハム2024あとがき①】
移動型の作品は古く、儀式的であると思う。〝イマーシヴシアター〟と呼ばれ出して20年くらいで、それ以前からもあるもの。
参列と覗き見が、移動の本質。
もともと宗教劇や祝祭の場における巡礼などが背景にある。日本の祭りでも、例えば神輿の担ぎ手と観衆の関係などもそう。
パジェントと呼ばれる野外で行われた移動劇も近代では似たようなものだろう。
そこから個別の物語や別の意味を見出して進化・変化していて、現代美術と身体表象の結び付きが活発になりはじめた1960年代以降に、現在にも通じるような形式が生まれた。
「イマーシブシアター」という呼称になったのは「Punchdrunk」の「スリープノーモア」が大ヒットして、そこから世界中に形式が普及した。
日本でも宿泊劇とか、結構いろんなスタイルのイマーシブが普及して一ジャンルとして認知されていると思う。
話を最初に戻すと、イマーシブの本質は「参列」と「覗き」の2つ。ここを基本に演出をしていった。
夢ハム2024 のイマーシヴの8/3のルートでは、〝肉体の不在〟について映像を通じ、モモたちと共有した。
時間的には共有しているが、肉体が介在しないことで、存在についてをより強く考える。
事前に俳優の肉体を通じて見ていた登場人物たちが、映像で映し出される。
そこでは事件性のある出来事が次から次へと起きる。
目の前で起きていると人は共感/非共感の機能が働くが、肉体が不在であるため、参列している人々はモモに寄り添わざるをえないことになる。
こちらのルートを選んだ人はモモに強い連帯感を抱いていたのではないだろうか。
8/5のルートでは、火星人裁判という部族の儀式を覗き見しつつ、追放と成人の儀式を近距離で見ることになった。
ジジがそれまでの自分を乗り越えていく為に、ベッポが生贄となる物語と、
不老不死を失い明確に迫り来る〝死〟についてを考え成長するラザロ。
至近距離で繰り広げられる暴力行為は、演劇的な虚構として物語に内包されていくが同時に、儀式の身振りにもなるのだ。
これはアクションをつけてくれた古田くんの手腕と、その手の数々を昇華させてくれた俳優たちの功績である。
一連の儀式の最後に、集まりから追い出されることまでがこのルートの醍醐味であったといえる。
時間を題材にした作品でもあるため、前や後ろという概念も時間と結びつけて考えていた。
作品的にはモモとラザロは対比的に描き、同時にジジもラザロとは対比となる構造になっていた。
〝進む〟ために、振り返るモモと
〝進む〟ために、捨てるジジ
死こそが〝進む〟結果待ち受ける終わりだとして、気高さを抱き続けることを選んだラザロ。
物理的に進む/待つ
参列したお客様にも、移動を通じてこの2つの行為を行なってもらった。作品に近づいてもらうことが今回の〝移動〟の目的であり〝味わい〟はどれぐらいどこに・誰に近づいたかで大きく変化したと思う。
何も感じなかった・面倒だったなど含めても、正解。時間は平等に流れでいくが、感じ方は千差万別だと考えるから。
映像ではどちらかのルートしか追体験出来ないのだけど「参列して覗く」という本質は記録出来ているのである。
稽古中に私が皆に伝えていたのは
「劇場を後にした時に、風の感じとか、街並みとか、日々のことや、自分のこと。家族や、友達のことを、ふと思い出すような。何気ない日常の中にある、あたり前・ささやかな幸せについてを考えてもらえたらいいと思う」
ということだった。
時間に追われたり、
自分の立場だけで見たりすると、
かんたんに人を攻撃するようになる。
戦争のロジックである。
最後にホラは殲滅と再生を行うが、再生された世界は均一化された世界であり、歴史は絶え、与えられたような幸せだけが残った。
争いの後に、全てを忘れて笑いあえることは理想かもしれないが、無かったことにされてしまうこと程の悲劇はない。
立ち止まったり、振り返ってみたり、思い出したりすることも、生きていく中では大切なんじゃないかという。
最後はハッピーエンド…
と取るかどうかは、人によって大分違うだろう。
長文お付き合いありがとうございました。
イマーシヴの本質からは遠のく、別の作品としての魅力に溢れたマルチカム配信は9/13迄配信中ですので、気になった方はこちらから是非。
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