茶そばと私.feat寺山修二
蕎麦の専門雑誌をつくっていたちょっと変な大人から、小包が届いた。それはまさに、「小包」という言葉にふさわしい大きさと形をした荷物だった。
小包をひらくと、「誕生日おめでとぅ 2020年!」と妙に達筆な文字で書かれた誕生日カードと年賀状のちょうど狭間にいるようなメッセージカードと、香り豊かな茶そばが封入されていた。普通こういうのは西暦じゃなくて相手の年齢を書くだろ、と思いながらも嬉しかった。私の誕生日とは全然ちがう日に指定配達をしてきたことも、なんだか気が張ってなくて良かった。なんとなく春に生まれてたよね、みたいに大雑把に私を捉えてくれてありがとう。私も、冬くらいに真似して小包みを送り返しますね。
今日は暑かったし、すぐに茶そばを茹がいて、お昼ご飯にした。
出来るだけオシャレな皿になるべく綺麗に盛り付けたあと、写真を撮って「ファルコンランチ」という文字列を添えてお礼のLINEを送る。
すぐに、既読がついて、「そのままでも美味しいけど、軽くフライパンで焼くと瓦そば風で美味いよ」と返ってきた。そういうのは!!!!先に教えてくれよ!!!!!!と昂ぶる感情をおさえて、「美味そう、やってみましゃあ」と返した。(やってみましゃあは、やってみますだと固すぎる感じがしたので適当に編み出した造語だ)
幸いなことに、まだまだ茶そばは残っていたので、また後日瓦そばにすることにした。茶そばが東京タワーなら、瓦そばは東京スカイツリーだ。どちらかに登ったからと言って、同じ景色が見れるわけではない。同じ麺(タワー)でもかなり味わいは変わってくると言えよう。シンプル茶そばで全部食べ切ってしまうという非常にもったいない事態は、防ぐことができた。
気を取り直して、茶そばをずるりとすすった。
さすがに冗談っしょというレベルの美味しさと香りが全身に巡る。美味すぎて笑う。気のせいだろうか、いま、目の前に茶畑が広がっていなかっただろうか。もしかすると私は、茶そばでトランス状態になった初めての人類かもしれない。茶そばを口に含むたび、脳味噌と関節がしずかに震えた。
皿の上の茶そばすべてをお腹のなかに入れた時にはもう、わたしのからだが、全身の細胞でもって、「走りたい」と主張していた。
もう2週間くらい、ずっと家にこもっていた。前に家を出たのは定期券の払い戻しに駅の「みどりの窓口」に向かったときだ。ベランダじゃない場所で日光を浴びたい。茶そばの豊かな緑の香りが鼻に抜けるたび、身体が揺り起こされ、全身が自然をたしかに希求する。完全にDOPEであった。
茶そばを食べおえた私は、すぐに着替え、家を出た。
家の近くに自然いっぱいのでっかい公園があってよかった。心からそう思った。GUで買った1900円くらいの消しゴムみたいな軽さのスニーカーを履いて、ゆるゆると走ってみる。指紋のみぞのところを、風がなぞる。名前のよくわからない木々が、笑ってしまうほど緑色の葉っぱをシャラシャラと揺らしている。植物特有の青い匂いが鼻をかすめる。
明らかに、季節が新緑を迎えていた。
これほどまでに季節を感じたことは、海の日にだってクリスマスにだってなかった。わたしは、生まれて初めて地球が青くてまん丸のつるりとした形をしていることを、たしかに信じることができた。それまでは教科書を見ても衛星写真を見てもうまく実感できなかった事実が、まったく関係のない状況ですとんと腑に落ちたのだ。
そして、わたしは、自分が寺山修二であることがわかった。
こんなことを突然に言うと、意味不明だと笑われるかめちゃくちゃドン引きされるのは承知しているので、順を追ってわたしが寺山修二であることを説明したい。寺山修二は説明という行為そのものを嫌うかもしれないけれど、寺山修二は私であり、私は寺山修二であることはやはり説明しなければならない。それを理解した上で、笑うか、めちゃくちゃドン引きしていただければと思う。
まず、そもそも寺山 修司という人は、日本の歌人、劇作家、アングラ演劇のカリスマの名を欲しいままにしていた男である。名前ぐらいは聞いたことがあるだろうと思うが、ここでは寺山修二の書いた『書を捨てよ、町へ出よう』という本について言及する。この本の「私自身の詩的自叙伝」という章の中で、寺山は大学に入学後病気になり、療養生活のあと快方に向かった頃、生きる「実感」をもとめて読書ざんまいの生活から遠ざかろうと思いはじめる。そしてそこには、それまでの豊富な読書体験から得たモデルが存在する。それこそがアンドレ・ジッドの紀行的詩文集『地の糧』なかで語られる「ナタニエルよ、書を捨てよ。町へ出よう」という言葉そのものである。
私は、いまの自分のこの状況や行動(コロナウイルスによって自粛生活を過ごすなかで、茶そばを喰らい、自然=生きる「実感」を求めて家を出て走る)は、『書を捨てよ、町へ出よう』での寺山修二のそれと等しいものだと考える。ゆえに、わたしは寺山修二である。わたしの体は生きる「実感」を孕ませ、細胞という細胞は粒だっている。そして、茶そばは胃液に溶けている。
わたしが寺山修司になるまで、わたしは、0であった。マイナスですらない、なにが不足しているのかもわかっていない。空っぽの中を空っぽで満たしていた。わたしみたいな人は、きっとコロナウイルスで閉塞する社会でいまこの瞬間にも、たくさんいる。それは悲しいことだ。だからみんなに言いたい。
「茶そばを食べよ、瓦も食おう」
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