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ワ!ワ!ワ!

自分の感情やスタンスに何らかの名称が付与されると安心する。
ラベルを貼ることでわたしはわたしのことを理解出来たような気になるし、名称があるということは似たような人が自分以外にもいるのだと思える。
しかし最近はそのことに、それほど意固地になり過ぎなくてもいいなとも思うようになってきた。

確かに共同体として生活する上で分類は重要なものではある。名称があることによって、他者を知ることにも繋がるし、それが付けられることで認められたと感じられる人もいる。また、人と会話する際に共通の名称を用いることで、楽に自分のことを説明出来たりして、その事実に心が落ち着くこともある。
だけどそれらの分類があるからこそ、自身の感情がどれに当てはまるのか悩んで、より不安になることもある。上手く当てはめられたとしても、それに縛られ過ぎて「わたしはこうだから」と、その規範からはみ出すことがまるで良くないことのように感じてしまったりもする。もっともっと軽く柔軟でありたいのに。
感情はひどく曖昧で、論理的では無くて、他人と比較も出来ないし言葉で説明できないことの方が多いのに、それを名前一つで表そうとしている。それは便利で助けになることもあるけど、乱暴なことでもあると思う。

必要なものであるから、わたしはこれからもそれらの言葉を使用するけど、それはあくまでただの名称であってその中には色んな濃淡があって良いということはしっかり意識していたい。
またこれは自分の感情に向き合うときだけでなく、人と関わる時もそうでありたい。「この人はこう言っていたからこういう人だ」と決め付けずに、わたしはちゃんと今のあなたを見たいです。



もうめちゃくちゃ眠い!のに、何か書きたいの気持ちが勝ってしまって、もう何のこと言っているのかよく分からなくなってしまった。
わたしは知らずに誰かを傷つけてしまうことが本当に怖いです!