「神秘に纏わる幻想と現実」悟りの巻
通常の人間が体験し得ないと思われている神秘的な事柄に関して、それを実際に体験する側の立場から見て「いやいや、そんなにご大層なもんじゃないんだよ~」なんて思うことが結構ある。
分らない、体験した事がない、誰も知りえない、人間がそう思っている事にロマンを感じて理想化する気持ちは分かるし、明かされない事象にこそ想像の源と知っているので、それを馬鹿にする気持ちは全くない。
ただまあ実際のそれを知る身としては「そんなにファンタジックじゃないし地味だしよく考えたら普通の事なんだけど、それはそれで味わい深いからもっと身近な神秘をよく見てくれよ~」なんて思うことも多い。
と、そんな訳で無邪気な夢をぶち壊すようで申し訳ないんだけど、今回はそんな風に通常触れえぬ神秘のように扱われている事柄の中から“悟り”に纏わる幻想と現実ついて記してみようと思う。
【悟りに纏わる幻想と現実】
まず多くの人が持っている幻想的イメージとして、精神性の高い人物が苦行や苦難の道の末にある日突然悟りの境地に達して世俗的な苦悩や煩悩から開放されて、一点の曇りもない聖人に昇華するというものがあると思う。
これに関しては甚だしい誤解とも言えないのだけど、実際のところみんながイメージするような悟りの境地なんてものはない。(実際はあるけどない、といった感じなのだけどその話はややこしいので省く)
実際は自信の内面的探求の末に行き着く片方の極みに境界面のようなものがあってそこを通過する一瞬の間、通常と異なる知覚を得る。
その時確かに宇宙の神秘と呼べるものに触れるのだけど、触れたところで今までの感覚で見えていた物事全般の見方が変わるだけの事だ。
例えて言うなら子供が急に大人のように物事を感じるようになるという感覚かも知れない。急激ではあっても別次元的な変化ではないと思う。
それくらいの事なので一度きりそれを体験したところで一点の曇りなき聖人になって一切の苦悩煩悩から開放されるなんてことはない。
一度目に悟りの境地と呼ばれている境界面を通過する際の体験は確かに劇的なものだし物事の見方が一段上がる事でそれに伴って内面も大きく変わるのだけど、自分自身の体験や同じ体験をしたであろう人物の発言を見ても、私が境界面と呼ぶものは何度も何度も通過してその度毎に段階的に発達していくものだと思う。それは例えば化学の精錬の過程に似ていて、化学のそれと同様に完全に純度100%になることはない。
さらに言うとそうして発達を遂げていく人物がどんな風かと言えば“至って普通”という印象である事がほとんどだ。普通に変人、普通におおらか、普通に馬鹿っぽいといった風にどこにでも居るような人間ばかりだ。
聖人のようでもないし賢者や哲学者といった風情は全く感じられないし、煩悩も苦痛も普通に持ち合わせている。
ただ感覚の鋭い人は至って普通に見えるのにどこか普通と違う達観した感じや何を考えているのか分らない、といった印象を感じ取ることはあるかも知れない。
それとこれは余談だが“いかにも”な人物が悟りを説くのを見たら、それらしい事を言っていてもそれに付いていく事はオススメできない。
それとそのような悟りと呼ばれる体験をする人間はそうそう滅多に居るはずがない、なんていうどこから湧いたのか分らない謎の確信を持っている人が多いように思われるが、実際のところは一度目の悟り体験をする人間くらいならそんなに珍しいもんでもない。
なんとなくではあるのだけど、1度目を体験した人なら、少なく見積もって1000人に1人くらいは居るんじゃないかと思う。
とまあ仏教の伝説的ストーリーのおかげでイメージと実態とがずいぶんかけ離れてしまった“悟り”に関してはざっと話すとこんな感じ。
実は人が神秘と呼ぶ諸々は開けっぴろげで何にも隠されていないのだ。
ただあまりにもごく普通に日常に溶け込んで見えているのに気が付かない。
なのでそういうものに関心があるのなら、もっと近くから見ていって欲しいと常々そう思うのだ。