「十一人示」第六帖
今の世に「我こそ人越ゆる神の如き者ざ」「煩悩を捨てた仏の如き者ざ」と申して憚らん人、多く出てきておるが、そんな人ら、みな〈ひと〉越ゆる偉いものになりとうて背伸びしておるだけぞ。
そんな人ら、逆立ちしても叶わんこと願うから、なんにも〈みち〉足らんでおるが、そんな〈ひと〉らでも戸〈十〉の奥におわす〈ひと〉あるのぞ。
戸〈十〉の奥におわす〈ひと〉、親心持っているから「お陰やるから、はよ気付かんか」と、じりじりして待つなれど、そんな人ら背伸びするばかりで悪し元(あしもと)益々ぬかるんでしまっているぞ。
一(ひと)とは十一のことぞ。十の奥におわす〈ひと〉ぞ。
人とは一十(ひと)のことぞ。九の(ここの)戸の先に出づる〈ひと〉ぞ。
一(ひと)の真心、九の(ここの)戸開いて、人に宿る。
もひとつ開いてやっとこ十の戸。
十の戸越えたら、誰彼(だれか)に届く。
真心貰ろうた誰彼(だれか)様、嬉し嬉しで九の(ここの)戸抜けて、貰ろうた真心、十(と)戸の奥の〈ひと〉まで届く。
奥から先へ、先から奥へ、行ったり来たりで大忙し。忙しなれど一人(ひとひと)一十(ひとと)は、嬉し嬉しで頬緩ますぞ。
そんな風なから奥におわす〈ひと〉、「我に欲なし、煩悩なし」などと人でない風に繕う人ら、好かんぞ。
人に欲与えてあるの、人を試す胎でそうしてるのと違うぞ。奥におわす〈ひと〉戸の先に出づる〈ひと〉、人たることを尊ばれるからぞ。
足元(あしもと)見よと、くどう申し付けてあること、そういうことでもあるのぞ。
〈ひと〉ばかりでも、人ばかりでも行き来できんこと、ここに申し加えておくぞ。
八月七日 彼に遣る気付け