「十一人示」第三帖

嬉し嬉しという顔見とうて、つい褒美やりとうなるの親の本音なれど、そればかりで、お役目果たせる立派な人に成らんから、しんどい奉公さすのも親の本音というものぞ。

我善国(がいこく)の人、我善い神懸かりだと申して、嬉し嬉しの心持ちで、全て○(わ)になるように申しているが、そんなちょこちょい事で治まる道理ないぞ。

今の人、〈足元〉ばかり見て歩くから〈我善人〉様を宛てにして〈にほんのみち〉見えんことになっているのぞ。
褒美が落ちてやすまいか、と〈あしもと〉ばかり見たら先が分からんから〈未知〉怖くて〈我偉人〉様を頼っているのと違うのか?
面(おもて)をしっかと前に向けたら〈にほんのみち〉見えて、今が〈悪し〉でも、それも〈良し〉と成る道理、愈々はっきりしてきたぞ。

善し道、悪し道、お互い様が在り難いから〈みち〉足りると申しておるのぞ。一本道では〈みち〉足らんと言うことぞ。

日本人とは〈にほんのみち〉尊ぶ人の〈道〉ぞ。お互い様が在り難いと、良しも、悪しもあって、○(和)になると申しておるのぞ。

嬉し嬉しで行く道は〈我い人〉様の一本道。一本道では儘成らんこと、この先まだまだ出てくるぞ。

我枯れ(わかれ)る日来る前に、この人示よく読んで〈み〉に付けておいてくれよ。お役勤まる方々は〈みな〉に、この事現して見せてやってくれよ。


十一月十五日 過に○気付く

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