「人は幸せになる為に生きるに非ず」-後編
つづき
快楽ばかりに心を奪われてばかりで、その奥底にある「大丈夫」という感覚をしっかり心に刻み損なってしまったなら、不幸という冬の季節が訪れた時に”寄る辺のない世界に生きている”と言うような心持で過ごさなければならなくなる。
そうすると人は”寄る辺なさ”を掻き消すべく、おかしな”誤魔化し方”を無自覚に捻り出しては、結局のところ本来あるべき自分を見失いがちになってしまう。
例えば最近よくみかける変なスピリチュアル系にハマる人なんかは、とても分かりやすい例だ。
彼らが言うには「いつもポジティブな心でいれば、幸せが寄ってくる」そうだが、それを信じて縋り付く彼らは、そもそも自分がそんなものに頼りたくなるくらいに、今の自分が不幸で”寄る辺の無い”感覚の中で生きているとどこかで知っているはずだ。
言うまでもなくこれは矛盾した話で、自分の奥底から聞こえる「もう辛くて仕方がないよ、早く気付いてよ」という幼い自分の哀訴に耳を塞いでいる限り、彼らは本当にポジティブであり得ようか?
フェイスブックやインスタで自分の素敵なライフスタイルを見せびらかす人、地位や名誉や肩書きに執着する人、自分より弱い者や持たざる者を見て喜ぶ人、やたらと政治家や権威に噛みつく自称正義の人・・・
どこにでも居るこういった、こじらせ気味な人々を私は全く否定しない。むしろ、自分を含めた人間のそういう可笑しな習性やダメな部分というのは、ユーモラスで創造的で愛おしいと思っている。
ただそれと同時に、誰かの奥底で泣いている子供が無視されているのが見えると「どうにかならんものか?」と思ってしまう事もあるのだ。
必ずしも「辛くても誤魔化すな、自分の奥底から聞こえる声を聴け」と言うのではない。
ただここで伝えておきたいのは、不幸が齎す辛さというのは”満たされていない本来の自分”からのSOSのようなものだ。
それを無視したり、誤魔化したりしても”満たされない自分”は、それに気付いて欲しくてあの手この手で人を不幸に誘うのだ。
なぜか何度も何度も同じような不幸を繰り返してしまう。
不自然なほど、いつまで経っても心に辛い思い出が纏わりつく。
質の悪い人物や会社や出来事などに、何故か立て続けに関わってしまう。
例えばこんな風に、一見自分の意志とは無関係に見える不幸な経験は、実のところ自分の奥底の”隠された知性”が、なぜ”満たされない”のか、どうすれば”満ち足りた”と感じるのか、”満たされない”今の自分は人に何を与えて、何を受け取れるのか?
少なくとも一個人の課題として経験する不幸というのは、その人間の”隠された知性”が「汝自身を知れ」とばかりに、可愛い我が子に、敢えて辛い道を歩ませるのだ。
そしてもし辛くて挫けてどうにもならない時には、どこかから”満ち足りた人”が現れて手を差し伸べてくれるはずだ。
そして独り寄る辺もなく終りの見えない辛い道すがらで、誰かが差し伸べてくれた手を取った時の、あの胸に込み上げてくる強烈で美しい感覚を、多くの人が一度は経験しているのではないだろうか。
これも辛く苦しい不幸な時ほど、強く心に焼き付けられて「大丈夫」という不思議な安心感の礎になるだろうし、人に優しくされた”有難さ”を忘れることが無ければ、その人はいつか誰かに手を差し伸べる事だろう。
「人は幸せになる為に生きるに非ず」
と断言するのは、私の眼にはそうとしか映らないからだ。