「十一人示」第九帖

そこには何かがあるのだと言う事はご存知なのでしょうね。
ご存知ないように思われても、どこかで感じていらっしゃるのでしょう。
それで一体そこには何があるのかと気になってしまうのですね。
気になるから何かを語る声に耳を傾けたのでしょう?

そのお気持ち、とてもよく分かります。

ですが自らを神かかり、超常の者と名乗る方々に本当は無いのです。
彼らは特別な者でありたいだけなのです。平凡であることに耐えれなかったのです。
それでとても熱心に勉強したので、彼らの中にもいくらか本当を言う人もある事でしょう。
そうして語られるいくらかの本当というのは、誰かの受け売りや本に書いてあったことかもしれませんが、それは然して問題ではないのです。
そもそも本当というのは誰の発明品でもなければ、誰の持ち物でもないのですから。

それに、その方々の多くも良かれと思ってしている事です。

私たちの差しあたっての問題というのは、自分を偽ったり自分の在り様が見えなくなっている私たち自身なのです。
かつて私たちがどこかの何かに感じるものがあった時、それは澄んだ雫のこぼれ落ちる音のようなものだったはずです。

やがてその清らな音は人心から出た「特別なものに成りたい」「神の庇護を受けたい」そんな雑音にかき消されたのではないでしょうか?
それで神かかりを名乗る方のお話やものの本などに熱心になるのでしょう?

そのお気持ち、とてもよく分ります。

それでもまだ私たちが、こぼれ落ちた雫の清らかな音を忘れていないのなら、その濁りのない音にこそ耳を澄ませてください。

綺麗な音色の他に何も期待せず、ただ静かにただじっと。


芽吹き初めの日:源の彼に在り喜点く


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