「人は幸せになる為に生きるに非ず」前編
私は「これは絶対にこうだ!こう在らねば成らぬ!これこそが絶対に正しい!」なんて論調があんまり好きにはなれない。
でも、この事だけは敢えて言い切ってしまっても良いような気がする。
「人は幸せになる為に生きるに非ず」
もちろん、そう言い切る私自身も幸せでいたいと普通に願うし、不幸なのは大嫌いだ。
元来、筋金入りの根性なしの私だから、不幸な出来事に見舞われればすぐにへこたれるし、幸せな時は「こんな時がずっと続けばいいのに」と普通に思う。
ただそれでも幸せばかり求めて生きる事の馬鹿馬鹿しさについては、これまでの人生経験を通して身に染みて理解している。
それは哲学とか主義とか頭で考えたものとは違う、もっと生々しくて泥臭い、実感せざるを得ないものだ。
その上で自分を含めた色々な人の物事の感じ方、感じた事に対するリアクションなんかを見ていると、やっぱりこう断言せざるを得ない。
「人は幸せになる為に生きるに非ず」と。
なんて思ってみたところで、人はどうしたって幸不幸に一喜一憂するし、そういう当たり前の素直さを私は微笑ましく思う。
ただ、こうも思う。
ただただ起きる色んな出来事に、ただただ飲まれて泣き笑いするだけなら、それは大変気の毒な事だ、と。
幸せな時の満ち足りた感覚は確かに心地よい。
ただ多くの人はその感覚の心地よさに溺れてしまって、その意味合いについてまでは感じ取れずにいる。
あの満ち足りた感覚というのは、人がどこかで知っているはずの、何も欠けていなかった頃の”完全さ”を思い出した時に訪れるもので、幸せな時が過ぎ去った後も無意識に「自分は完全なのだから大丈夫だ」と囁いて力づけてくれる。
それと人は満ち足りた感覚に包まれた時、満たされないものに惹きつけられて、それを「満たしたい」という衝動が湧き起ることがある。
優しさ、愛、元気、寛容さ、美しさ
人々の記憶のどこかにある”完全さ”から湧き出た満ち足りた感覚は、そんな風に色々な形になって人から人へ伝わるもので、多くの人は身に覚えがあることと思う。
そうやって人から人へ巡り巡るものの素晴らしさを多くの人が賛美しているのに、幸せのもたらす快感ばかりを求めて止まないのは何故なんだろう?
そんなのは一時過ぎたら無くなることは誰もが知ってるはずなのに。
つづく