久しぶりの更新
久しくnoteに触れていなかったことにふと気がついて、スマホのアプリを開いた所存。
クリエイターとしての才能は無いが、取り留めもない事象を、何らかの言葉としてアウトプットしたいという、ある種の原始的欲求に苛まれた。それはいわば、己の己に対する承認欲求といったところが。私がここにあるという現象は、他者から観測はできても、自覚するには一旦「私」を外に出さねばなるまい。
ここ最近は、本を読み耽っていた。化学の苗床で過ごしたはずなのに、いつしか本棚は哲学と心理学、占いの本で溢れかえっていた。
とんだ倒錯だと、思う人も居るだろうか。未知のものを、既知の理屈で掘り下げることを学んだ化学屋が、理屈で語るに難しものにのめり込むなど。あるいは、もっと捻るのであれば、本当に私の思想かと、エセ神秘に魅せられていると思う方もいるのかもしれない。
たしかに、歴史的な前例がある。しかしこれは、この衝動はもっと純粋な、子どもらしい…親への反抗のようなものだろうか。
対極が知りたくなったのだ。私の知ること、知っていると思っていることの、私が思う反対側にはどんな情報があるのかと。
理屈や理念、過程に結果。そこから離れていると思ったところにあったのは、同じもの。理屈や理念、過程に結果であった。この世の全ては、人が残した情報には、すべてこれらの要素が含まれる。差異など、事実として観測したと言い張る人数くらいのものだ。対極に位置すると思っていたものは、実際には地続きであった。現実の地球のようだ。
仕方のないことと思う。本当に取り留めもないこと…理屈等々全てを省いてしまったら、残るものは赤子の喚きにも等しい言葉の何か。砂場の底に宝石を埋めるようなものだ。「ここに価値のあるものがある」と言い張っても、説得力もない。そこを探すために時間を割くのであれば、個々の視えている価値に重きを置く。理屈を並べることは、価値に辿り着く最短経路。
砂山を漁る時間は、たしかに無意味かもしれない。掘り返しても、運が悪ければ砂に紛れ、宝石は永遠に見つからない。人々はやがて疲弊し、「ここにはなにもない」と言い残し去っていく。やがて立て札がつき、そこにこう記されるのだ。「ここにはあなたの求めるものはない」と。後のかしこき人々はそれを一瞥し、もう二度と戻らない。効率的効果的かつ合理的である。そうして舗装された道と価値の情報を、人はやがて形に残す。それはさらにまとまり本となり、分野の旗印となっていくのだ。
つまり、本当の対極にあるのは、今も昔もこれからも存在しない何か。人々が観測し得ない未知のもの。すなわち、己自身ではないだろうか。
…理論が飛躍していることは重々承知しているが、これは生理的欲求の発散に過ぎないので、何卒お目溢しをば。深夜2時、明日仕事がある身としては、これ以上の夜更かしは色々障る…おやすみ。