過去の自分へ|カメラ、レンズ情報、消しちゃえよ。
半年ほど前の自分に向けて、この記事を書く。
カメラ趣味な方、写真趣味な方、SNSのプロフや投稿にカメラやレンズの情報について書いているだろうか?
そのことについて、考えたり悩んだりしたことはあるだろうか。
僕はこれについて長らく悩んでいた。
そしてあるとき、これを書かないことを決断した。
書かないことを決めた今、僕のnoteではちょっと人気の記事
などは削除してしまおうか、とさえ思っている。
過去を隠すつもりもないから、それも含めて自分ということで、そのまま掲載はするけれども・・・
当時の迷っていた自分に対して、強くメッセージを贈りたい。
カメラとレンズ情報を掲載すること、今一度理由を考えてみよう
「カメラとレンズについて語ること、そんなに大事なのだろうか。むしろ語らないほうがいいのではないか。」
そんなことを君が考え始めたのは2018年のCP+に行ったときのことだ。
実はずいぶん前から気になっていたはずだ。
当時、一眼レフを持ちたての僕は、「最新のカメラやレンズに触れられる」とウキウキしながら初めてのイベントに足を運んだ。
そして偶然にも、大学時代の友人に出会う。
だが、その友人はステージの上にいた。
有名カメラメーカーの企業ブースで登壇をするまでに有名になっていたのだ。
さらに、その話に衝撃をうける。
カメラ、レンズの祭典であるのに、その友人はカメラとレンズについて一切語らなかった。
その代わりに、自分が何を撮っているのか、なぜ撮っているのか、そこから何を伝えたいのか、を話し続けた。
僕は彼女の写真に釘付けになっていた。
このときに感じた「なにか」が、今君の中で再燃している。
その「なにか」を真剣に考えるべきだ。
君はなぜ、「カメラ」「レンズ」について語るのだろうか。
プロフに自分の装備を載せたり、メーカーや機種のハッシュタグをつけたり、使い勝手についてコメントをしたり、同じ道具を使っている人に「いいね」をしたり。
本当にそれが必要だろうか?
自分の表現をするとき、道具の情報を載せることって?
もしプロフからカメラやレンズの情報がなくなったら。
もしメーカーや機種のハッシュタグを使わなくなったら。
もしカメラやレンズについてコメントしなくなったら。
もし同じ道具を使っている人を探さなくなったら。
不安だろうか。
でも僕は問いたい。
サッカー選手は試合後にスパイクやボールについてコメントするだろうか。
油絵画家は作品を展示するときに、筆や絵の具の情報を掲載するだろうか。
ミュージシャンはライブで自分の楽器について語るだろうか。
それを君はやっているのだ。
見た人はどう思うだろうか?
「いや、でも同じ趣味の人は興味をもってくれると思う。よりよい写真を撮るために道具の情報を知りたいし。」と、君は反論するだろう。
ではさらに問いたい。
Jリーグだろうと高校サッカーだろうと、観客はサッカープレーヤーだろうか?
絵画の展覧会に来る人は画家だけだろうか?
ミュージシャンのライブに来るのはミュージシャンだけだろうか?
さて、君の写真を見てくれる人は誰だろうか?
写真を撮る人に向けて写真を表すことが、本当に大事だろうか?
大丈夫、「君のカメラとレンズが不明」になったときが、君の写真のスタートだから
カメラ、レンズについて、
・プロフから情報を消す
・ハッシュタグを使わない
・それを語る文章を書かない
となると・・・
僕は何者だろうか。
誰が僕を探してくれるだろうか。
どういう自分を知ってもらいたいのだろうか。
不安だろうが、大丈夫。
これが君の写真のスタートになった。
今の僕はそう感じている。それまでの君はスタート地点にさえ立っていなかった、とさえ思う。
「カメラ」「レンズ」にこだわるな、という話ではない。
自分の撮りたいものにあった機材を使うことは写真を楽しむ上で大事なことであることは事実だし、新しい機材を買うことは新しい表現のきっかけになる。
それを「表さない」、ということが自分の写真を考える一歩になる、ということだ。
じゃあ何を表すのか。これが1つの「答え」である。
スタート地点にたって真剣に自分と向き合うことで、写真は何倍もおもしろく、自分の人生に意味をもたらし始めるのだから。