京急の街「汐入」|軍人の歓楽街を訪れた僕は、気づくとお地蔵様に手を合わせていた
2020年のある日曜日の朝10時くらい。
軍人の歓楽街を撮りに来たつもりが、気づくと線香の煙がたちこめるお堂の中で右往左往しながら、地蔵に向かって手を合わせていた。
前日の夜は、きっとどんちゃん騒ぎ。
朝日を浴びて清々しさを感じるほどの静まり返ったどぶ板通りに、カランカランと乾いた鐘の音が鳴る。
普段なんのお祈りもしていない。
それなのに、お地蔵様になにか僕も一緒に救われたような気持ちになったのはなぜだろう。
「救い」とか大袈裟だろう、と言う人もいるかもしれないが、「よし、頑張ろう」とでも思えたなら、僕にとっては救いなのだ。
僕にとっての汐入。青春の輝き。
京急の駅「汐入」はKK58。京急本線で横須賀中央の一つ手前の駅だ。快特は止まらないが、特急は止まる。
汐入はこれまで何度か降りたことがあった。
一番最初の記憶は、中学時代。吹奏楽コンクールの県大会であった。
僕が3年生のとき、初の地区大会上位となり、県大会で横須賀芸術劇場に来たのだった。それが僕にとっての初めての「汐入」だった。
見たことがない景色が、「新しい場所に来た!」という想いをより一層強くさせ、誇らしく思えた。僕にとってここはそういう景色がある場所なのだ。
横須賀芸術劇場。
こんな立派な舞台に、15歳の自分が立てたなんて、今でもにわかに信じ難い。
貴族のような赤絨毯、装飾が施された温かい照明、ふかふかした肌触りのいかにも高級感のある座席シート、映画でしか見たことがない馬蹄型の劇場。どれもが初めてだったし、別世界。
今振り返っても、僕が人生の中で最もときめいた瞬間の一つだった。
県大会のステージの数時間前。
少し時間の空いた僕らは、海辺を散歩していた。
学校の部活動でこんな遠くまで来たことがなかったし、これから始まる出来事にウキウキしながら、この珍しい湾の眺めを仲間たちと楽しんでいた。
今もその海の景色は変わらないように見える。
戦艦の浮かぶ海の遊歩道
平和な海の遊歩道、ヴェルニー公園。ただ、その海には軍艦や潜水艦が浮いている。
かつて公園の対岸にあった横須賀製鉄所。フランス人技師のヴェルニーがその建設に貢献したことから、「ヴェルニー公園」になったらしい。
汐入駅は元々、1930年(昭和5年)4月1日に「横須賀軍港駅」として開業したことからもわかるように、その歴史は軍施設との関係が深い。現在は向こう岸がアメリカ海軍、こちらの岸には海上自衛隊がそれぞれ狭い湾に軍艦を並べている。
物々しい雰囲気になりそうなのに、実際散歩してみると平和な気分になるから不思議だ。
公園にある不思議なモニュメントの横にはこんな説明書きがある。
軍国主義を美化したいわけではないけれど、こんなモニュメントを作るなんて手が込んでいて、それはそれで立派に感じてしまう。
日本が作った「軍隊的な」名残を街全体が残しながら、今はアメリカ軍兵隊の歓楽街として残っている、そんな雑多な雰囲気を味わいたくてこの街を歩きに来た。
軍人の歓楽街。賑わったであろう翌朝を歩く
汐入といえば、どぶ板通りだ。
スカジャン発祥の地と呼ばれ、通りにはハンバーガーショップやアメリカンテイストなバーなどが立ち並ぶ。
金曜の夜に来るとアメリカに来たような光景に出会えるから、かなり面白い。異世界もいいところで、もはや外国である。
この日は日曜の朝。
きっと前日に盛り上がったであろう街の朝は、どこか疲れていて、「もう勘弁してください」と言わんばかりにシャッターを閉めているように感じられた。
この街が好きなんだ。そう思っている人が多いような気がする。それはそこにいる人にとっても外から来る人にとっても、幸せなことだと思う。
今はリアルな世界の価値がどんどんと捨て去られているように思えてならないけれども、僕はこういう街に残ってほしい。
軍人の歓楽街の軌跡を求め。。。
るはずの僕は、地蔵に手を合わせていた
そんなどぶ板通りの入り口にはお地蔵様が祀られているお堂がある。
周りのアメリカンな雰囲気からするととても異色で、写真的には面白いなぁ、なんて思っていた。
と、商店街の人だろうか。
お地蔵様にお参りに来た人がいた。
よく見ると中にはもう一人いる。
二人共お賽銭をし、中にある線香に火を灯し、深々とお祈りをしている。
普段、宗教観を感じる光景を目にすることは少ない。神社にお参りに行ったとしても、そこまで深々とお祈りをしている人は少ないだろう。
ところが、この商店街のお地蔵様。
至るところに線香の煙が充満し、朝日を浴びた空気はその存在感を一層強くしている。鐘がなるたびに僕をどこか違う世界に引きずり込んでいく気さえした。
気づくと僕は、お堂の中で線香を手にしていた。
作法がわからないまま、右往左往し、特に何を願うわけでもないのに、手を合わせている自分がいる。
と、さらにもう一人。この方も律儀と感じられるほどに、忙しなく線香をそれぞれの場所に指しながらお祈りをしていく。散歩中に前を通り過ぎる人も、一礼をしていく人が多い。
お堂から出てきた僕は、茫然としながらも、なにかスッキリしたような、重い空気から出てきたような、光を浴びているような、そんな気持ちになっていた。
この街で、なぜこのお地蔵様がこんなに熱心に祀られているのか。
あなたはどう考えるだろうか。