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ねえ、パパ

父親が嫌いだ、という話がしたい。いつの間にか、珍しい話でもなくなったと思う。親との関係が悪く、それによって成長後なんらかの障害をきたすというのは、このご時世よくある話だ。

わたしは父親が嫌いだ。どれくらい嫌いかと言うと、離婚してもう3年が経つ今でも夢の中で迷惑をかけられ、心療内科で診断された鬱の根底に父親がいると心理士から指摘を受ける程だ。今もつい先程まで愛しのベッドですやすやと眠っていたはずなのに父親の悪夢を見て飛び起き、勢いのままにこの文章を書いている。
わたしは父親がひたすらに嫌いだ。ひたすらに嫌いでいたいのだ。

父は面倒なひとだった。診断こそついていなかったものの、確実にアスペルガー症候群で、人との付き合い方が本当に下手くそな人だったと思う。飲食店で何か店側に不手際があれば小さなことでもかならず店員を呼び出し、「こういうのはしっかり言った方がいいんだ」と不必要な程厳しく上から目線に叱りつける。運転中にこどものわたしではわからない何かで突然怒り出し、家族でのお出かけの雰囲気を台無しにする。わたしが何かを言おうとするとそれを遮って自論を展開する。「言ってる意味わかる?」は、わたしのなかでもっとも嫌いだった父の口癖だ。母が正しいこと、それも"食器はシンクに運べ"くらいの小さなことで叱れば「俺が死ねばいいんだろ」と激昂し自分の頭を壁に打ち付けるパフォーマンスを始める。それが終わると家から飛び出し、深夜にこっそり帰ってくる。父親としての役目を果たしていた覚えはほとんどない。そんなひとだった。

幼い頃はすごくこわかった。父がではない。父と母の喧嘩によって、どちらかがどちらかを嫌いになってしまうかもしれないことがだ。だからふたりが喧嘩をしているときはできるだけにこにこして関係の無い話をしようとしたり、父親に対してもとてもやさしく機嫌を取ろうとしていた。幼いわたしは父がそんなのだとしても、父のことがきっと好きだった。きっととするのはあまりその頃のことを覚えていないからだ。
それでも、ひとつ確かに思っていたことを覚えている。
「かぞくみんなで、なかよくしたい」
わたしは父のことを嫌いになることがこわかったのだ。
それからある程度大きくなって、発達障害などの知識をつけた頃。父親はおかしい、と明確に気づいた頃。父親であろうと、おかしいのだから嫌ってもいいと気づいた頃。それが明確にいつだったのかは思い出せない。しかしわたしはその頃から、父親のことを毛嫌いするようになった。

両親が離婚したのはわたしが20になる頃だ。遅すぎるくらいだと思う。高校の頃に家をリフォームして父とわたしがそれぞれ自分の部屋を手に入れて以来、会話はほとんどなかったと思う。ふたりの姉のうちひとりはもう実家を出ていたし、2番目の姉もわたしと同じように父親をほとんど空気として扱った。父親は毎日のようにピザのデリバリーを頼み、ペットボトルの甘い飲み物を飲んでいたが、全て父の部屋ひとつで完結していたので放っておいた。"家に関係ないおじさんがひとり住んでる"ような状態だと思っていて、それがずっと続くのだろうな、と半ば諦めていた。
両親の離婚は突然決まった。父親の借金が理由だそうだが、あまり詳しく聞いてはいない。ただ父が出ていったあと、とてつもないゴミ部屋と化した父の部屋を片付けながら、最後まで最悪だな。本当に嫌いだな。と思ったことを覚えている。

父親との関係はそこで終わらなかった。よく知らないが、祖母にも借金をしていたらしいし、離婚の原因になった借金は母が立て替えたらしい。返済のために母だけが連絡をとるような状態で、わたしが父に会うことはほとんどなかった。
それでも父は何度か我が家を訪れた。「家の鍵がない、ここにあるはずだ」と半ば泣きながら騒いだり、「金を貸してくれ」と言ってきたときもあった。毎回今度こそ殺されるかもしれないと怯えた。いずれもわたしは対応せず鍵のかかる脱衣所や玄関から離れた2階に隠れていたが、そういったことがあった後はかならず父の夢を見て魘された。つくづく迷惑なひとだと思った。

そしてそんな父はつい最近、高血糖ショックだかなんだかで駅で倒れ、死の境をさまよった。運のいいことにすぐに救急搬送され処置を受けられたために命は助かったが、ウェルニッケ失語が残った。死ねばよかったのにと思った。
わたしはこの件に関しても出来うる限りノータッチで、母と姉たちに全てを任せるつもりだった。が、父は退院後まっすぐわたしの家にやってきた。運悪く、わたししか家にいなかった。そのときわたしは父の顔を、おそらく3年ぶりに見た。
ウェルニッケの影響だろう、父は意味のわからないことを言っていた。わたしは刺激をするのが怖く、「大丈夫?おうちちゃんと帰れるかな?」とまるで子供にするような対応をして、なんとか父を家に帰らせることに成功した。
父は掠れた声で何度も繰り返した。
「うん、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。すごくいいことをしてるんだなっておもって、またいっしょにやりたいなって」
いいことというのがなんのことかはわからない。3年ぶりに見た父は痩せ細り、髪は減りボサボサと乱れ、病院服は汗だくになっていた。ふらふらと歩いていく後ろ姿を見て、何も言えなくなった。

その後やっぱり気になるという母と共に父親の住むアパートに向かった。父は部屋の前で大量の荷物を抱え座り込んでいた。
驚いて咄嗟に「だいじょうぶ?わたし、つぐみ、わかる?」と声をかけた。こちらを見た父が、今までに見た事のないような穏やかな笑顔で、笑った。
「わかる、きてくれたんだ。鍵が…鍵がなくて」
「看護師さん、胸にぶら下げてくれたって。ほら、これだよ」
「ほんとだあ…ありがとう、つぐみはなんでもわかるね」
また笑った。以前の父はそんなことは言わなかった。
「わたし代わりに開けるね」
鍵を差し出すその手は震えていた。枯れ枝のようだった。家の中はゴミ屋敷になっていた。カバー画像に使われているのが実際の父の部屋である。
父は「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返しながらゴミ屋敷の中に入っていく。わたしも荷物を置くのを手伝った。吐き気がした。これ以上ここにいたくないと思った。
「それじゃあわたしもういくね。大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
父は満面の笑みを浮かべて、わたしの頭をごく軽く、壊れ物に触れるようなやさしい手付きで、撫でた。
「またね」
同じ言葉は返せなかった。

父は昨日、2回目の救急搬送をされたという。運良く今回も助かった。わたしは昨日までに何度も何度も父の夢を見た。父の死が近づいているのを感じる度に、父が死ねば解放されるのだろうか、と思う。おそらくされないな、とも思う。

覚えている父親との思い出なんて、最悪なものばかりだ。最悪なものばかりのままにしておきたいのだ。いいことなんて思い出したくない。だってわたしは娘のわたしにほほ笑みかける父を見て、ゴミ屋敷に入っていく父を見て、かわいそうだと思ってしまったから。
かわいそう。このまま孤独に死んでいく父がかわいそうだ。だからといって手を差し伸べる気にはなれない。そんな金もない。だから今まで通り毛嫌いしていたい。わたしは死んだ時に何も思いたくないのだ。嫌いだ。大嫌いだ。早く死ね。どれだけ嫌悪を表すことばを重ねても、わたしを見て心底安心したようなあの笑顔が、今日もわたしに悪夢を見せる。今まで通り生活保護などの対応は全て福祉従事者の母と叔母、姉に任せる。わたしは何もしない。わたしにできることは、深夜にこうして父のゆく末を思い、涙をこぼすことだけだ。


ねえパパ、どんなふうに時が過ぎたって、わたしはパパの娘なんだね。
ねえパパ、わたしパパのこと大嫌い。でも、パパが死んだらちゃんと泣くからね。よくがんばったねって、骨壷だけは抱きしめてあげるからね。

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