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犬を愛でる
犬を愛でる人をじっと見る。前の週末、浅間大社で本を読んでいた時にふと思ったが、ペットは何がかわいいんだろうか。予期・想像できない動き、ランダムさが一つ大事だと考える。急に走ったり寝転んだり、彼らなりに考えているのだろうが、私たちには追えない一挙手一投足に惹かれるのだろう。それにラブリーが乗ったらそりゃかわいい。
ペットが人間の言葉を話したらどうだろうか。「今日はあったかいね!ごろごろしちゃう」「虫見つけたよなでて!」、自分としてはペットの持つかわいさは半減すると思う。なんなら薄気味悪さすら感じる。そうかそうかと喜びをくみ取ってあげることができるが、なんか思ってるのと違う、人間のコミュニケーションで事足りるなと思うはずだ。言葉・感情の通じない中、生まれる対話や通じているな~という心のつながりがペットを飼う、愛情を注ぐ本質だろうと考える。
自分は比較的ランダムさ、未来の不確定さを好んでいる。たまたま通りかかったお店に入ってみたり、何のあてもなく歩きまくる休日を過ごしてみたりすることがある。しかし、どうやら世間はそうでもない。せっせと旅行の計画を立てたり、特に仕事においては不確定さというものを徹底的に排除したがる。計画性のなさを裏返して肯定して生きている私にとっては尊敬すべき人々である、よく計画に乗せて遊んでもらうので大感謝している。
思えば私は仕事中も場当たり的なシーンが多く、予想外と出会う度に些末な問題だなぁとか本質的な課題ではないなぁとか思いながら、時間というリソースでなんとかする。何とかなってはいるのだが、計画性のない奴だと思われているのだろう。それすら些末な問題だなぁと自分をごまかしている。
人間は計画性の生き物だ。文化の発展には、大きなプロジェクトを打ち立て、ねりねり頭をひねって成し遂げる、計画性のある人が必要不可欠だろう。みんなが場当たり的ではこうはならない。たぶん、まだマンモスを探して地球3周分はうろつき、挙句の果てにこの虫食えるのでは?などと言い出し地球は荒れ野原、足はムキムキ原始人のままだろう。この期に及んでもそんな生活もいいんじゃないと思う自分がいる。己のポジティブさに腹が立つ(立たない)。
人間の繁栄には計画性が不可欠なので、みんな計画的に行動できるようなソフトウェアが人体に仕込まれているべきであろう。計画的な行動の達成に対して報酬系が反応し、気持ちいいとなってくれれば自分でも行動できる。しかし、ペットのランダムさを愛するように自分の予期できない、アンコントローラブルなものに惹かれてしまうこの機能は何のためについているのだろうか。
遺伝的アルゴリズムの突然変異率である。不確定さを好む気持ちが脳に、遺伝子に組み込まれているに違いない。わずか数%のこの機能によって、人類は生存競争において多面的に強くなってきた。だがしかし、どうやらこの機能、人の中の数%とかではなく全人類の数%、という仕込まれ方をされているような気がする。計画大好き人間が95%、ランダム大好き人間が5%と完全に隔絶され、お前は人類の突然変異担当じゃとご指名いただいているわけである。イーロンマスクは多分ランダム大好き人間である。それもムキムキに筋力を持っており、些細な計画外などぶち破って宇宙へ行くのだろう。自分のようなレベルでは壁にぶつかると「おっ、このシミはなんだかアフリカ大陸に見えるね」などと問題を直視せず、壁の中でよりよい生活を築こうとする。人類の発展にはそうそう必要ないだろう。
卑下するために文章を書いているわけではない。ランダムさの話に戻るが、何にせよ自分にはそれを愛する機能がついている。ペットの思いもよらない行動や言葉がなくとも通じ合う感情に愛おしさを感じている。おそらく赤ちゃんも初めは似たようなものだろう。何がきっかけで笑ったり泣いたりするかわからないのだからそれは間違いなく愛おしい。ペットと同列とは決して考えていないが、インプットアウトプットは変わらない。
しかし、成長したらどうだろうか。自分の感情をコントロールすることができるようになり、相手の気持ちも慮るようにでき、予想外なんてなくなるのだろう。さらに、生活環境が同じなのだから自分の性格と似ている、あるいは反面教師的に真逆、ある程度想像の付く思考回路を持つ子どもとうまくやっていけるだろうか。と、考えたが杞憂である。その時はもう彼彼女は愛玩の対象ではないからだ。ランダム人間か計画人間に振り分けられる。
ランダム人間だったら一緒に壁を見つめよう、そんな週末を過ごそう。
計画人間だったら老後をよろしく。