
性交同意年齢にみるリベラルの欺瞞~「人権より選挙」を支える家父長主義~
はじめに
この小論は、日本の自称リベラルの欺瞞性について向けられたものです。保守系と自認する方は読んでも得ることはありません。また「性交同意年齢」の引き上げ自体への反対を表明するものでもありません。
なぜ性交同意年齢は引き上げられるのか
強制性交罪を「不同意性交罪」に名称変更することなどを眼目とした、刑法改正案が2023年5月30日、衆院で可決しました。多くのメディアはこの名称変更に注目して報道していましたが、より重大な改正がありました。性行為への同意を判断できるとみなす年齢、いわゆる「性交同意年齢」の引き上げでした。
改正案は、現在の「13歳以上」から「16歳以上」に引き上げることを盛り込んでいます。これにより、同年代同士を除き、16歳未満との性行為は処罰されることになります。
ではなぜ、この年齢を引き上げる必然性があるのでしょうか。そしてなぜこの法改正が重大なのでしょうか。
法改正の検討は、2020年に法務省に設けられた「性犯罪に関する刑事法検討会」で議論されました。メンバーは以下の人たちです。

ここでの議論を振り返ります。(太字は筆者)
・子供は,理解力や力関係の差を利用されて被害に遭うため,被害を被害と認識できず,性的行為に同意していると思い込まされている場合があり,加害者に対する迎合的な態度を強め,時には被害を恩恵と捉えることさえあるのであって,そのような行為が適切に処罰される必要がある
・若年者は類型的に立場が弱く,判断能力・対処能力が低いため,一定の影響力を有する者からの働きかけに対して適切な判断や拒絶等の行動を取ることが困難な場合がある
・いわゆる性交同意年齢には達しているものの,意思決定や判断の能力がなお脆弱といえる若年の者(中間年齢層の者)に対する性的行為について,その特性に応じた対処の検討が必要であることについては認識が共有された。
意思決定能力、判断能力の欠如
13歳から15歳までの若者は、性交していいかを決めたり、その理非を判断したりする能力に乏しい、というのが年齢引き上げの根拠なのです。
同検討会のヒアリングに応じた大阪大学の野坂祐子准教授(発達臨床心理学)は、次のような趣旨を述べています。
・子どもが身体接触を拒まないのは、生得的な愛着(アタッチメント)行動、あるいは防衛であり、性的な行動ではない
・同意のある性関係には、子どもの成熟と十分な教育が必要だが、身体面の性的成長がみられても、思春期は発達途上の年代
・思春期の性行動は成熟の証というより、ケアを要する行動化 (サイン)として捉えられ、同意能力の未熟さを表す可能性がある
子どもの性行動が一種の錯誤に基づきかねないことを強調しています。
人権がなければ、侵害もない
では、逆に考えてみます。なぜ長い間(明治40年以降です)13歳以上には、望めば性交を行うことが認められているのでしょうか。
これは明らかです。身体の自由です。基本的人権の筆頭にくる権利です。リベラリズムの祖であるジョン・ロックは
「ある人がそれに服する法の許す範囲内で、自分の身体、行為、所有物、そしてその全固有権を自らが好むままに処分し、処理し、しかも、その際に、他人の恣意的な意志に服従することなく、自分自身の意志に自由に従うことにあるのである」。
と説明しています。
ここで一番最初に「自分の身体」とあることに注目したいと思います。身体の自由は、何をおいても最初に守られるべき、人間の生得的な権利とみなされました。学校で、これを「自然権」と習った人もいるかもしれません。
個人がだれと性交しようと、原則は個人の自由です。自分の体をどう使おうが自分の勝手、国家や教師や親にだって不当に介入させないというのがロック以来の自由権の中心的価値なのです。逆に、本人の意に反して性交を強要されることは、最も深刻な人権侵害です。これはコインの裏表なのです。
法改正の検討でも、この自由を前提に議論をしています。検討過程では、以下のような意見が出されています。以下の「性的自己決定権」こそが身体の自由にほかなりません。
・判例・通説は,性犯罪の保護法益を「性的自由・性的自己決定権」であるとしており,そのような見解に異論はないとの意見が述べられた
・未成年者であっても不完全ながら性的自己決定の能力はあり,性的な興味に従って行動することも一つの権利であるところ,性的興味が強い中高生の男子が成人女性と同意の下で性的関係をもった場合に成人女性が処罰されることは不当である
・障害者の性的自己決定権は尊重すべきであり,障害に着目した規定を設けることで,障害者に対するパターナリズムが強化されて,施設内で性的行為を行うこと自体に問題があるとされることとならないようにすべきである
ここに一つの逆説が成立します。
性犯罪が許されないのは、他人の基本的人権(ここでは性的自己決定権)を奪う行為だからにほかなりません。しかし、性交同意年齢を引き上げると、それまで認められていた年齢層の性的自己決定権=基本的人権は、実質的に制限されます。改正法に沿っていえば、同世代同士を除けば、いかに本気で好きあっていようとも(快楽におぼれるためだけに行為にふける場合も排除しませんが)、相手が刑事罰を受けるという形で、厳しく制限されることになるわけです。
子どもたちの人権を守るために、国が法律によって、子どもたちの人権を実質的に制限するというのは、一種のパラドックスです。少なくとも、子供を「権利の主体」とみる立場ではありません。
後述しますが、その立場は家父長主義(父権主義とも。パターナリズム)と呼ばれるものにほかなりません。上記の報告書にも「障害者の性的自己決定権は尊重すべき」の文脈で使われている用語です。
日弁連の反対意見書
こうした懸念を背景として、日本弁護士連合会は2016年9月15日に「性犯罪の罰則整備に関する意見書」を公表しました。その中で性交同意年齢について、以下のように述べています。
・自由意思による性交を処罰するのは国家による過度の干渉である。 性的意思決定の自由が侵害されていない,自由意思に基づく性交は,刑罰によって禁圧されるべきものではなく,処罰対象とするべきではない
・13歳以上の者は性交の意味を理解することが可能であるから,相手方が監護者(筆者注:子どもと生活を共にして身の回りの世話をする者)であるからといって直ちに真摯な同意がないとみなすことはできない。
300万人の人権問題
日弁連が「自由意思による性交を処罰するのは国家による過度の干渉」と心配するのは、当然と思います。筆者は国家がかつて行った断種などの優生学的政策をさえ想起します。
「重大な改正」と申し上げたのは、これが本来であれば、基本的人権や優生学的発想への憂慮を伴うべきものだからです。13歳から15歳の、1年代100万人として、おおよそ300万人の子どもたちと、その後に続く全世代の人権にかかわることなのです。
人権配慮のない”リベラル”政治家たち
しかしながら、冒頭でも記した通り、筆者は性交同意年齢の引き上げ自体に反対しているわけではありません。同意できない年齢層は確実に存在するわけですから、その線引きは社会通念などを勘案しながら、政治的に決めるしかありません。
13歳では若すぎるという議論は、昭和10年代には出ていた古くからのテ―マです。国際的にも引き上げが流れになっています。なんでも国際基準に合わせるやり方には感心しませんが、といって13歳であるべき必然性もないのですから、それが社会的要請であれば、改正もありとは思います。
ただ、許し難いのは、リベラル政党の政治家が、この問題に対し、子どもたちの人権に対する国家の介入という視点での配慮を全く示さなかったことです。
日ごろはLGBTQだ女性だ障がい者だと、少数派の人権擁護を言い募っている政治家が、300万人に関係する問題に沈黙していたのです。どういう人権感覚なのでしょうか?
「女子中学生に同意能力はない」(立民:寺田議員)
それどころか、国会の討議の場で、立憲民主党の寺田学衆議院議員はこんな発言までしています。
成人と一般的に言う女子中学生の間にも真摯な性的同意が成り立ち得るのではないかということを刑法学者の方が言われております。それに対して物すごく強い反発や疑問の声が出ているんですけれども。
まだ働くこともできない女子中学生が成人との間で真摯な性的同意が成り立つということは、およそ僕は想像はできません。
子供を持つ親として考えると、物すごく気持ちの悪い発想だなと思いました。
令和4年11月16日
中学生に性的自己決定の能力を認めず、あると考えることさえ気持ち悪いと言っているのです。この発言は控えめに言って刑法学者に失礼ですし、どこかの中学生が傷つく可能性を考えていないとしか思えません。さらには、LGBTQを気持ち悪いという人を批判できません。
もちろん国会での発言ですから、だれに配慮することなくおっしゃっていいのですが、それだけにこの議員の人権意識がうかがえます。
ついでに、なぜ「女子中学生」に限定しているかも不明です。ここには男子よりも女子の同意能力が劣るという寺田議員の差別意識がのぞいているのではないかと思います。
筆者が調べた限り、この寺田学議員こそ、性交同意年齢引き上げに関する国会質疑で、一番発言回数が多い議員なのです。リベラル政党を任じ、人権重視を綱領に掲げる立憲民主党の代表がこの認識なのです。
反リベラルの日本共産党(マルクス主義の本義に照らして、共産党は本質的に反リベラル政党です)の吉良よし子参議院議員も国会で、
(性犯罪に関する刑法検討会の取りまとめ報告書の中に)教師やコーチによる児童との性的行為を一律に処罰することには疑問があるという信じ難い意見も出されたという記述を見付けたわけなんです。これ、本当あり得ないとは思っているんですけど
令和3年5月27日
と述べています。日本共産党は綱領で、「国民の基本的人権を制限・抑圧するあらゆる企てを排除」すると高らかに宣言しています。どうなっているのでしょうか?
なぜ、日ごろは人権にうるさい議員さんたちが、この問題では子供たちを少しも「人権の主体」として考えず、「保護の対象」とのみ、みなすのでしょうか。
それこそが、家父長主義(父権主義、パターナリズム)なのです。
家父長主義を脱せない自称"人権派"
広辞苑によると、パターナリズムとは以下のように定義されています。
パターナリズム【paternalism】 相手の利益のためには、本人の意向にかかわりなく、生活や行動に干渉し制限を加えるべきであるとする考え方。親と子、上司と部下、医者と患者との関係などに見られる。
人権派の議員さんたちがまさにパターナリズムに当たることがこの定義から明白です。
もちろん、すべてのパターナリズムが否定されるものではありません。国家がいわゆる社会的弱者に向けて、様々な救済策を設けていることとどう違うんだという反論もあるでしょう。
ただ、今回の問題は、すでに法が認めている基本的人権を、事実上はく奪する点が根本的に違います。人権派を自認する政治家や政党が、しらーっと通り過ぎていい問題ではないと思うのです。
もう一つ指摘しておきたいのは、日本も批准している児童の権利に関する条約(国連子どもの権利条約)が
第12条
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。
と定めていることです。
法改正に当たって、13歳~15歳からのヒアリングを行ったとは寡聞にして知りません。当事者不在の議論であっていいのでしょうか。むしろリベラルを任ずる政党こそ、こういう手続きの旗振り役になるべきだったのではないでしょうか。
立憲民主党の家父長主義批判
さらに強調しておきたいことがあります。このパターナリズムこそ、立憲民主党が与党批判に使ってきた言葉なのです。
例えば2019年9月13日に開かれた参院会派の研修会で、立憲民主党の枝野幸男代表(当時)は、
「リベラル」の対義語は「父権主義(パターナリズム)」です。違いを認めてお互いに支え合うのが「リベラル」であるのに対して「父権主義(パターナリズム)」は、例えば貧しい人を上から助けてあげましょう、困っている人を上から助けてあげましょうというもの
と議員たちに教えていますし、2017年12月の共同通信社での講演では、安倍前首相を「保守主義ではなくパターナリズム」と批判しています。
これが欺瞞的でないとしたら、立憲民主党は口先だけの中身のない政党だということになります。批判のための批判をするために、パターナリズムという言葉を辞書から引っ張ってきただけなのでしょうか。
本多発言の本質と影響
そうではない、と筆者が思うのは、立憲民主党の本多平直衆院議員が、以下のように発言したと伝えられているからです。
複数の関係者によると、5月10日に開かれたWTで本多平直衆院議員(56、比例北海道ブロック)が「例えば50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と発言した。同月下旬のWTでも「12歳と20歳代でも真剣な恋愛がある」「日本の『性交同意年齢』は他国と比べて低くない」との趣旨の意見を述べたという。
この発言は当時、大きく話題になりましたので、ご記憶の方も多いと思います。本多議員は立憲民主党の西村智奈美衆院議員のご主人です。
本多議員のこの発言は、保守系メディアから大バッシングを受けたのみならず、朝日新聞が批判的に記事にしたように、党内を含めたリベラル陣営、性愛の多様性を訴える諸団体からも、まったく支持や支援を受けられませんでした。
本多氏の発言の真意は不明ですが、結果としてこの発言は、人権に関する議論ではなく、「中年おっさんの気持ち悪いロリコン趣味」ととらえられたのです。寺田議員が「気持ち悪い」といったのと同じ文脈です。
この結果、本多議員は議員辞職を余儀なくされます。それほどまでに、この発言への嫌悪感は保守、リベラルに関係なく強かったのです。
この騒動のインパクトが、この問題に関するリベラル政治家の口を重くした、と筆者としては思いたいところです。実際、立命館大学の嘉門優教授は、
深刻化する性被害をどうしたら防げるのか、刑法学者が国際的な比較や議論をしているところに、本多議員の発言がありました。この発言が議論することをタブー化させ、検討を止めてしまった面があるのが残念です
と述べています。
人権団体の無関心
本多議員の発言が激しいバッシングを受けたのは、日本のリベラルを任ずる陣営に(限らずですが)、家父長主義が抜きがたく染み込んでいる証拠です。
日本には数多くのフェミニズムの団体、LGBTQを支援する団体がありますが、本多議員の発言に連帯を示さないまでも、議員辞職にまで追い込むほどのバッシングについての違和感を表明した団体があったのか。筆者は寡聞にして知りません。
2008年、カナダは、成人との性交同意年齢を14歳から16歳に引き上げました。この時、カナダのリベラル組織であるカナダ性保健連盟(旧家族計画連盟)は
個人の権利に対するこのような制限の強化が、性的搾取からの青少年の保護を強化し、個人のプライバシーと同意に基づく活動への侵入を正当化するのに十分な他の利益を提供するという証拠がない
と明確に反対しています。カナダではLGBTの団体なども、性交同意年齢の引き上げについて反対の声を上げています(自分たちへの配慮が足りないというロジックですが)。筆者が言いたのは、日本ではこうした意見が先の日弁連以外には、リベラルな組織からまったく聞こえてこないことの不思議さです。
繰り返しますが、特に自称リベラル政治家の人たちが、まったく懸念を表明しないのはなぜなのでしょうか。
投票権なき者の人権は軽視されるのか
それは、究極的には、「票につながらないから」というのが、筆者の”好意的な”見立てです。改正案は多数決で通過するのは確定しています。本多議員の顛末を間近に見ていた議員たちには、波風を立てるより、黙っておいた方が票を減らさない、という自己保身が働いているのではないかと思います。
これを逆にいえば、有権者以外の人権は軽視されるということになります。そこで思い出されるのが、結婚年齢の引き上げです。
結婚年齢引き上げも同じ構図
2022年4月から、女性の結婚年齢が2歳引き上げられて、18歳となりました。16歳、17歳の人口の半数、計約100万人と、そのあとに続く全世代の女性の婚姻の自由の一部が、ここでも奪われたことになります。
一方でこの時には、民法上の成人年齢が20歳から18歳へと引き下げられたのです。ということは、国会は今の若者の判断能力が過去の若者に比べて高まったと認識していることになります。なのになぜ男性の結婚年齢を16歳に引き下げるのではなく、女性の権利を奪う形でその年齢を引き上げたのでしょうか。
ここでも国際標準年齢へのサヤ寄せが行われています。しかし、政治的に大事なことは、繰り返しますが、子どもを「権利の主体」と考えるより「保護の対象」とみなす方が、有権者に受けがいいということなのです。保守、リベラル問わず、日本は家父長主義がぬぐいがたく残っているのです。
中絶の自由も
リベラル政党が声高に求めている「中絶の自由」は、さらに本質を浮き彫りにしているかもしれません。法的には人権がないとはいえ、中絶はヒトの命を奪うことに他なりません。しかし、ここでは胎児は明らかに「保護の対象」でありません。
どうして、胎児と児童でこれほどの差が出るのか。それは、リベラル政党が、実際には弱者に寄り添っているのではなく、「有権者の要望」のみに耳を傾けているからではないでしょうか。
もちろん、望まない妊娠などの深刻な問題があることは確かですが、こう想像したくもなります。
起きているのは保守主義の台頭ではない
繰り返しますが、筆者が指摘したいのは、保守政党をパターナリズムと批判しつつ、実際には子供たちにパターナリズムを押し付けるリベラル政党の欺瞞的な姿勢です。そして、そうしたリベラルを支えている諸団体も実は家父長主義的な軛から逃れられずにいるという構図です。
少数者に権利を与えよと声高に叫びつつ、子どもたちの権利は制限してでも保護してやれと無自覚に金切り声を挙げている人たちがいるのです。
これは日本のリベラル陣営の限界なのかもしれません。
有権者は馬鹿ではありません。こうした欺瞞的な二枚舌がまかり通るくらいなら、まだパターナリズムを最初から認めてしまった方が筋が通っていると考える有権者が、リベラルから離れているのだと思います。保守が台頭しているのではなく、一般の有権者がリベラルから引き始めているのです。
リベラリズムにとって、身体の自由という、基本的人権の最筆頭の問題を超えるテーマは、そうはないのではないかとも愚考します。有権者の批判を恐れるあまり、原則論に立ち返って問題点をちらりとでも指摘する議員がいないのは、リベラリズムに対する裏切りではないかとさえ思います。
このままでは日本のリベラル政党は、時流に乗りたいだけの、ロジックを持たない、根無し草のような存在になり果ててしまうのではないかと心配しているのです。