良心とは、誰もが有するものなのか?
良心が痛むという。
「良心」とは、目に見えぬもの。
目に見えぬものが痛むとは、どういうことか。
それは、目に見えぬが“在る”ということだ。
「良心」とは、善悪や正邪を判断したうえで、己の行為を正しく選び取ろうとする心の働き。
即ち、己の心の中にあるもの。
良心とは、誰もが有するものなのか?
答えは唯。
しかし、いとも簡単に濁り、汚れやすい。
これ、放置しておくと良心のセンサーは働かず、痛みを感じず、存在すら失念してしまう。
もはや、この状態、“人”ではない。
他人を騙したり、揶揄したり、見下したり、虐めたり、奪ったり、時に殺めたり。
場を汚したり、傷つけたり、破壊したり、時に消滅させたり…。
このような行為に及んだところで、人でなしの状態であれば、いくら問い詰めたところで、良心の呵責は感じない。
末法の世において、このような輩が、今まさに氾濫している。
人間は本来、この良心の働きによって、感覚的に善悪の分別を付けることが出来る。
然し、良心が機能していない者には、善悪が何たるかを判断することは出来ない。
従って、自分を悪者と思わず平気で行為に及ぶ。
これ、他人が力技で何ともしようがない。
誰が咎めようとも、自分自身で心を清めることが出来なければ良心の復活はない。
このままいくと、人類は悪で染まる。
そうなれば、ご破算にするしか他ない。
そうなりたくなければ、どうすれば良いか。
出来る者から、自らの心を磨き続け、光りを放ち、闇を照らすことで、気付くのを待つしかない。
己、光りを放つ人になれ!
太陽のように。
さすれば、人類の行く末は、まだ明るい。
そのことを肝に銘じ、自分自身の心を清め、磨き、少しでも魂の光を放てるよう懸命に精進します。
有難う御座います。
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幸せを呼ぶそよ風チャリダー/サステナビリティイノベーティブコンサルタント。「感謝感動を世界に地球に」のカングロ代表、ザッポス研究会、イノベーションサロンZ、システムD研究会、サステナ塾、セブメディ創設者