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へんなお好み焼き

今から約40年前の話。転勤族の父に連れられて福岡市から岡山市に越してきて1年が経つ頃、父が岡山市内で新築の家を建てた。そこに春から、家族5人で暮らすはずだったのだが、新築の完成間もないとき、急に父が広島へと転勤となり、単身赴任することになった。


こうして、母と中学1年生になる私と小学6年生になる双子の妹2人の4人で、新築の家での新生活が始まった。しかも、これまで住んでいた社宅とは少し離れたところに建てたので、学校区が変わり、中学入学がまた誰も知り合いのいない学校となってしまった。


その中学校は、当時から岡山市内で1、2を争うマンモス校であると同時に、不良の多い学校として有名だった。
福岡から岡山に転校してきたときほどの緊張はなかったものの、さすがに入学式が終わって、母と離れるのが辛かった。恐る恐る新しい教室に入り、自分の席に座ってみると、前席の奴は特別に短い学ランの裏地が紫シルクで金色に刺繍された竜が舞い、普通の3倍以上の太さがある学生ズボン(「ボンタン」と呼んでいた)を履いていて、新中学1年生にして完全に出来上がっていた。私は少し顔を引きつりながら振り返ると、後席の奴は既に眉毛が剃り落とされていた。


周りの環境に影響されて、私も少しやんちゃな中学生になってしまった(もっとも、一度も優等生と呼ばれたことはなかったが)。昼休みには、ガムを噛みながら図書館の隅で悪友たちと花札に興じ、放課後は、校長が大切にしていた錦鯉の泳ぐ中庭の池を「釣堀」と呼んで釣り糸を垂らしていた。


そんな悪友たちの中でも、私は特にKと馬が合った。Kは野球部に所属していたが、親が勉強に対してとても厳しいらしく、毎日分厚い参考書を丸写しさせられていた。そのためか、Kは学校の成績がいつもトップだった。


私たちはいろいろと理由をつけて2人で学校を抜け出すと、よく近くの『タイガース』という名のお好み焼き屋に行った。そこで、漫画を読みながら2人でHな話をするのが常なのだが、なぜかいつもKの奢りだった。大きな鉄板に沿ったL字のカウンター席しかない狭い店内では、福岡で食べたことのある「モダン焼き」に似た、へんなお好み焼きを焼いていた。


鉄板に小麦粉を薄く丸く敷き、その上に刻んだキャベツともやしを盛り、さらにベーコンのような三枚肉を並べ、最後に隣で炒めていた焼きそばと目玉焼きを合わせて、出来上がり。まったく具を混ぜない。そんなに小麦粉をケチらなくても、と子供心にも思ったものだ。


この『タイガース』は、名前の通り、店主であるおばさんが熱烈な阪神ファンだった。阪神が勝ったり、掛布や岡田がホームランを打った次の日は、へんなお好み焼きをかなり安く食べさせてくれる。


さらに、おばさんが特に機嫌のいい日には、平日の昼に学校を抜け出して食べに来る不良中学生に奢りで食べさせてくれていた。そのため、私たちはテストの出来よりも、プロ野球の結果を気にするようになり、阪神が勝った次の日は、決まって『タイガース』で熱々のへんなお好み焼きを頬張りながら、想像力を無限に膨らませたHな話で盛り上がる。


これが、2人の友情の証しとなっていた。

KがHな話の合間にする級友の噂話とか、親が強制的に勉強をさせる不満とかをウンウンと頷きながら、私も漠然とした将来の不安をKだけには告白でき、銀色のヘラで鉄板を突きながらお互い励ましあった。
そして、ソースが鉄板で焦げる香ばしい匂いを嗅いていると、不思議と他の級友には何事も負けたくないという闘志が、欲情と同じように体の奥底からムラムラと湧き上がるのを感じるのだった。

あのまま岡山で暮らしていたら、今頃どんな大人になっていただろう?
翌年、父の単身赴任に終止符が打たれ、私たち家族は広島に引越すこととなった。口煩い父が家にいなくて、新築の広い家で自分の部屋を持ち、生意気に彼女だっていた、夢のような生活はあっけなく終わりを告げた。

引越しの当日にKが餞別だと言って渡してくれた『必勝』と書かれた石の置物を見ると、今でもあのときの『タイガース』のソースの甘辛い味とともに、セピア色の愛しくて恥ずかしい1年のことを思い起こす。

へんなお好み焼きの正体が、実は「広島風お好み焼き」だと知ったのは、広島に来てすぐのことである。

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