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椅子を売る男

その店舗に、やっと新しい入居者が決まったようだ。

半年ほど、まったくの空き店舗だった全面ガラス張りの1階の店内で騒がしく内装工事が始まった。繁華街に近いその通りは、周りに有名な女学校や大きな教会が集まる閑静な地区にある。

私は、この店舗の前の道を仕事場に行くために毎日自転車で通っている。前の入居者がこの店舗に入ってきたのは、おそらく今から2年程前だと思う。私がやっと今の仕事にも慣れてくると同時に、新しい目標を見出せずに悩んでいる頃だった。

20坪ほどもある広い店内は、ほとんど内装らしい内装を施さずコンクリートが剥き出しになっている。その中に、素人の私から見ても高そうでカラフルな椅子が無規則に置かれていて、見るたびにその配置が変わっている。そんな店内の様子は、当時の私の関心事の1つとなっていった。
 

まだ、オープン前のある夜、その店にダウンライトの明かりが灯っていた。店内で、その店のオーナーらしきスラッと長身の若い男が、彼女らしき女性と一緒に店内をあちこち指差しながら、談笑しているのが見えた。何の目標もなく、ただ疲れて家路を急ぐだけの私には、その様子が嫌に眩しく、脳裏に焼きついて離れなかった。
 

ほどなく、その店はオープンしたようだ。といっても、何か派手な看板や張り紙があるわけでもない。広い店内の1番奥の小さなカウンターで、あのときの若い男がノートパソコンを眺めて座っているだけだった。

ちょどその頃、地元のニュース番組でその店の紹介をしているのを偶然目にした。やはり、店長でオーナーである、その若い男が1人で始めた店だった。とにかく椅子が好きなので、世界中から自分が本当に気に入った椅子だけを集めているらしい。
「大切に使ってくれる人に、買ってもらいたい」
その若い男の純粋な言葉が胸に刺さった。
 

けれど開店以来、私は一度として店内で買い物客を見たことがなかった。その店の様子を垣間見るのは、毎日の通勤や仕事での移動でその店の前を通るほんの数秒に過ぎないのだが、私の想像は日に日に膨らんでいった。
 

彼がパソコンで1日中見ているのは、大好きな椅子のネットオークションだろう。次に仕入れる椅子を世界中から探しながら、心躍らせている。

そして毎夜、店を閉めてから、大好きな1つひとつの椅子に座りながら、その椅子が大切に使われていく様子を夢想するのが、彼の習慣になっている。「経営」や「マーケティング」といった言葉には、彼はあまり関心がない。ただ、本当に大切に使ってくれる人とこの椅子たちが出合えることを日々願っているのだ。
 

しかしある夜、彼は1番お気に入りの椅子に座り、長い沈黙の後に夢から覚めて「そろそろかな・・・」と呟いたに違いない。

ゆっくり立ち上がった際、初めて床に彼の涙が落ちた。
 

当初、私は半年しかもたないと考えていたが、その店はオープンからたしかに1年以上も存在した。そして、2度目の夏の終わり頃、何の張り紙もなく、その店内からすべての椅子が消えてしまった。私がやっと新しい目標を見つけ、再び歩き始められた頃だった。
 

彼のその後の所在を私が知るはずもない。しかし、今は力強く新しい道を歩んでいることを願いたい。いつかきっと、彼も自分がこの場所で世界中の素敵な椅子を売る店のオーナーだったことを誇りに思うときがくるだろう。

誰にでも椅子に座っている時期はある。彼も、その時期を過ごしただけ。
 

そして、誰にでも進みゆく道は、いつも先に続いている。 

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