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軽トラの兄ちゃん

転勤族の父のために、私は子供の頃からよく引越しをした方だと思う。

その中でも、今から約25年前に学生時代を過ごした四国・松山を離れるときほど、辛い引越しはなかった。当時の私は、大学卒業後も学内の図書館で、独学で司法試験の受験勉強を続けていた。だが結局、その夢を果たせないまま、中途採用という形で就職することになったのだ。23歳の秋のことである。

就職先は地元の生活協同組合。毎日トラックに乗って、食品や雑貨等を組合員に配送するのが仕事となる。春から働き始めるものとばかり思っていたが、先方から独身寮が1つ空いているので、すぐに来てほしいとのことだった。急遽、私は生まれて初めて1人で引越しの準備をしなければならなくなった。

当時の私の総財産は10万円もなかった。散々調べたあげたあげく、引越しの際に私を助手席に乗せて一緒に連れて行ってくれるという条件を取りつけ、ある軽トラックの会社に決めた。引越しのことは誰にも話さなかった。この悔しさを絶対に忘れてはいけないと思ったからだ。1人で荷造りをしながら、自分自身にこの引越しの意味を問い続けていた。

引越しの当日は晴天だった。時間通りにトラックの運転手が1人でやってきた。無愛想な挨拶を済ませ、私が用意していたお金を無言で確認すると、そのまま箱詰めしてある荷物を手際よく軽トラに積み始めた。

歳は30前後。色黒で、黒のTシャツを肩までまくり上げ、筋肉質の太い腕が印象的だった。私も言われるままに手伝った。全部積み終わるのに、30分もかからなかった。

狭い軽トラの運転席の中で、しばらくお互いに無言だった。私は車窓を流れる景色の1つひとつに松山で過ごした4年半の思い出が蘇ってきて、涙を抑えるのに精一杯だったのだ。彼の方も、こんな時期に引越しをする学生らしき男に全く関心がないようだった。
 

「俺、実は地元で就職してトラックの運転をするんですよ。」
私の方から切り出した。やっと、軽トラが松山市街を抜け、徐々に心の落ち着きを取り戻したからだ。もう後ろを振り向かずに、前だけを見つめようと決心した。

それから、私はこれまでの経緯とこれからの仕事の内容を正直に話した後、「トラックの運転はやっぱり大変ですか?」と会話のボールを彼に投げてみた。
「そりゃあ、こんなトラックで1年のうち、3分の2も西日本中を走り回っているんやからな。しかも、事故ったら確実に即死だろうし・・・」と言ってから、夜間眠らずに走らせることも多いこと、大阪にいる妻と1歳になる子供のこと、しかしこの仕事が気楽だから続けていること等を教えてくれた。

そして最後にひと言、「こんな仕事でも、やってみるといいこともあるよ。」と初めから元気のない私を励ましてくれたのだ。何気ない言葉の裏に、私に対する思いやりと彼の仕事に対するプライドが感じられた。白いタオルで握り鉢巻をしている彼の横顔は、爽やかだった。

それから、また2人は黙った。彼は、明日からの九州での仕事のことを考えているみたいだったし、私は彼の帰宅を何日も待ち続けている彼の妻と子供に思いを巡らしていた。

今治から三原までフェリーに乗ったが、その間中も会話はしなかった。ただ、船内で彼が黙って、うどんとおにぎりを差し出してくれた。胸が熱くなった。このとき、彼は2年以上も六法全書に噛り付いていただけの私に、全く別の生き方もあることを教えてくれた。

彼のおかげで私は、毎日トラックのハンドルを握っている自分の姿を、やっと初めて想像してみることができたのだ。それから独身寮に到着後、荷物を部屋に運び入れてから、足早に帰ろうとする彼を私は呼び止めた。夢中で、財布に残っていた2枚の千円札を彼に渡した。

生まれて初めてのチップ。心からのお礼。

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