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喧しい『教養』と私
つくづく『教養』という言葉は、喧しい言葉だと思う。
書店に行くと、「教養としての〇〇」やら「教養の〇〇」といった具合で、全く強迫観念的なタイトルばかりで、辟易してしまう。何でこんなに『教養』という言葉を見るにつけ、聞くにつけ、苛々するのだろう。
彼らの言うところの『教養』はどうやら一つのパッケージ化された知識のようで、とても便利な代物のようだ。最初から最後まで、まじめに「学び」「覚えれば」、次のステップに移っていける。そしてそれは、直線的なプロセスの一部分でしかなく、当然終わりなどない。
このnoteで僕が目論むのは、これらの喧しい『教養』になんとか抗い、逃げ続けることにある。
彼らの言う「教養」には沢山の問題があるけれど、一番大きい問題は、それが『道具的な知識』にとどまっていることにある。ある一つの目的(場合によっては、すごく世俗的な「出世」だったりする)のために使役されるだけの空疎な「知識」。
だとすれば、それを乗り越えるためには、その「知識」「学び」が持つ本来の強さ、広さ、しなやかさを生かして可能な限り転用することで、空疎な「教養」に捕まらないよう動き続けるしかない。その力強さは、広さでも、深さでも測れないはずだ。
遠く、一見無関係なものの中に、強引に、起爆的な力で「意味」「連関」を見出していくこと。こういったことを次回以降のnoteでは目指していきたい。そのためには、題材は何だっていい。
どうかお付き合いをお願いいたします。
【今回の参考図書】
『構造と力 記号論を超えて』浅田彰